シンデレラボーイ(川合俊一)

facebook icon twitter icon

 オリンピックに2度出場(84年ロサンゼルス、88年ソウル)するなど長きにわたって日本の男子バレーボールを牽引してきたスター選手の原点は今から19年前の冬の試合にあった。男はまだ大学3年生だった。

 

<この原稿は2022年7月5日号の『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

 

 この3月に日本バレーボール協会会長に就任した川合俊一が、初めて日本代表入りしたのは、日本体育大学3年生、20歳の時である。

 

 1983年11月、東京でバレーボール男子のアジア選手権が行われた。この大会は84年ロサンゼルス五輪の予選も兼ねていた。

 

 日本の最大のライバルは中国。決勝は12月1日、東京体育館で開催された。

 

 初代表の川合はベンチスタートとなった。いきなり2セットを連取され、日本はもう後がなくなった。

 

 川合の回想。

「簡単に2セットを取られ、3セット目はちょっとリードしているけど、逆転されそうな雰囲気が漂っていましたね」

 

 と、その時である。いきなりコーチの大古誠司から声がかかった。

「川合、アップしろ!」

 

 満を持しての登場ではなかった。

「えええ、という感じですよ。この局面で学生のオレかよって……」

 

 川合の頭には、翌日の新聞の見出しが浮かんだ。

「若手の川合、起用失敗。日本、オリンピックの出場権獲れず」

 

 大古がセンターの三橋栄三郎を川合に代えたのには理由があった。

 

 再び川合。

「三橋さんは打つ方はいいけど、ブロックは僕の方がよかった。後で聞くと、大古さんが監督の中野尚弘さんに“ここで勝負をかけましょう”と言ったというんです。コートに出る前の大古さんの指示は“川合、一発ブロック決めて来い!”というものでした」

 

 ブロック要員としてコートに入った川合だが、中国に対しスパイクが面白いように決まった。当時としては珍しかった“流れ攻撃”が功を奏したのだ。

 

「セッターの手前をクロスして打つんです。あるいは、その逆も。この時代はコミットブロックといって、スパイクを打つためにひとりが跳びあがったら、相手もひとりが跳ぶというやり方が主流でした。要するにマンツーマンの時代ですよ。僕がAクイック(セッターが前方の斜め上に短く速いトスをあげ、センターがスパイクを打つ攻撃)を打とうとすると、絶対に相手のブロックもついてくる。

 それをかわそうとすれば、バコーンと打つより、ペチャンと打たなければならない。野球で言えば剛速球ではなく変化球ですよ。手首やヒジで微妙に打ち方を変える。僕はずっとこの打ち方を練習していたんです」

 

 もっとも、川合が発案したこの“流れ攻撃”、当時は邪道と見られていた。

 

「これを練習していると、大古さんから“オマエ、何やってんだ!”と叱られました。“オマエはデカイ(身長195センチ)んだから、高くジャンプして、一番高い打点で打て!”と。要するに剛速球を投げろ、というわけです」

 

 ミュンヘン五輪のエースアタッカーで、日本の金メダル獲得に貢献した大古には、“古き良き時代”への郷愁があった。

 

「しかし、こちらがデカイと言っても、相手もデカイんです。確かに、“流れ攻撃”をやるとこれまで3メートル40くらいの打点で打っていたので、3メートル30くらいになる。それでも相手のブロックをかわせるから、こちらの方が有効だろうと……」

 

 川合には練習パートナーがいた。セッターの古川靖志である。

 

「古川さんは僕よりひとつ年上。もっと年長のセッターだったら言い出しにくかったかもしれない。古川さんだから“残って練習に付き合ってくれませんか”とお願いすることができた。

 中国戦でも2人は思いを共有していた。“これ(流れ攻撃)は決まるな”と。しかし、古川さんとしては恐かったはず。というのも、この攻撃は誰もいないところにトスを上げるわけですから。そこに僕がすっ飛んでいく。本当に来てくれるのかという心配もあったでしょう。互いに信頼がなければ使えない戦法ですよね」

 

 チーム最年少の川合の活躍で、徐々に流れが変わり始めた。

 

「僕のスパイクが面白いように決まるものだから、会場も盛り上がってくる。“うわーっ! やった!”って走り回っていたらムードもよくなってきたんです」

 

 この日の川合はラッキーボーイだった。苦手のサーブでもポイントを稼いだ。

 

「この日は滅茶苦茶、寒かったので空調が入っていた。サーブが苦手な僕はミスして怒られるのが嫌なので、ママさんバレーのセカンドサーブのような高いサーブを上げていた。運がいいことにその高いサーブが空調の風に流されて変化し、中国がミスを連発した」

 

 第3セットに続き4セット、5セットも取り、0対2から大逆転。日本は川合の救世主的な活躍で、ロス五輪の出場権を掴んだのである。

 

 翌朝、合宿先の新宿のホテルを出ると大変なことになっていた。

 

「当時、日体大の寮は世田谷にあり、僕は新宿から渋谷まで山手線で行って、田園都市線に乗り換える予定でした。

 新宿駅に着くと、おじさんたちが“川合俊一、シンデレラボーイ”という見出し付きのスポーツ紙を読んでいる。“あれぇ、これキミだよね?”と。“はい!”と返事すると、“見たよ、すごかったね。おめでとう!”と。すると、まわりの人も次から次へと“見てた、見てた!”と寄ってきて握手攻め。そればかりか、向かいのホームの人たちも拍手してくれている。僕は、“ありがとうございます”と、もうそこらじゅうに頭を下げまくりました。僕は五輪にも2回出ましたけど、あんな経験は最初で最後でしたね」

 

 一夜にしてスターとなった川合は、その後、長きにわたって日本の男子バレーボールを支えることになる。今にして思えば“スター誕生”の瞬間だった。

facebook icon twitter icon
Back to TOP TOP