青春のドラゴン(藤波辰爾)
プロレスの世界には力道山以来、ヘビー級神話があった。大男たちの肉弾戦こそが最大の醍醐味というわけである。そんな風潮に風穴を空けたのが体重80キロそこそこの若武者だった。
<この原稿は2022年8月5日号の『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>
その昔、アントニオ猪木率いる新日本プロレスには、「カール・ゴッチ杯」という若手の登龍門があった。“プロレスの神様”の名前が冠されたこのリーグ戦を制した者には、その褒美として海外遠征の権利が与えられた。
栄えある第1回大会(1974年)の優勝者が、今回の主人公・藤波辰爾である。20歳の時だ。翌年6月、藤波は先輩レスラーとともに西ドイツ遠征に出発し、やがて戦いの場を米国、そしてメキシコに移した。
猪木に憧れ、中学卒業後にプロレス界入りした藤波は、大きな悩みを抱えていた。食べても食べても太れないのだ。プロレスラーといえばヘビー級、大男たちが幅をきかせていた時代だ。80キロそこそこの体重では技に迫力がなく、レスラーとしての見栄えも悪かった。
転機はメキシコ遠征だった。当地のプロレスは「ルチャリブレ」と呼ばれ、ほとんどのレスラーがマスクマン。小柄なレスラーが多いため飛んだり跳ねたりの派手な空中殺法が売り物で、祝祭的な要素が多分に含まれている。
ある時、メキシコのリングで、藤波はとんでもない技を目のあたりにする。場外に転落した相手目がけて、リングの中から、ほとんど水平に飛び込む「トペ・スイシーダ」だ。ちなみに、トペとは、スペイン語で「衝突」、スイシーダは「自殺」。受ける方も命がけなら、仕掛ける方も命がけである。
藤波の回想。
「飛んだり跳ねたりは、まだいいんです。ところが彼らは3本あるロープの1本目と2本目の間を抜けるように飛んでいき、相手にぶつかる。これがトペ・スイシーダだったんです。
最初にこの技を見た時、“こいつらバカか!?”と正直言って思いました。だって向こうの試合会場には闘牛場もあり、リングの下には石ころがゴロゴロ転がっているんです。かわされたら、どうするのか。言ってみれば水のないプールに飛び込むようなもの。さすがに、これをやる勇気はなかったですね」
1978年3月3日、群馬・高崎市民体育館。3年ぶりに帰国した藤波は、マスクド・カナディアン(ロディ・パイパー)相手に、この技を見舞った。アナウンサーはこれを「ドラゴンロケット」と命名した。
この“人間魚雷”のような技の反応は、藤波の想像を、はるかに超えていた。
「これをテレビで見たお客さんは、地元の会場に足を運び、“自分も見たい”というわけですよ。歌手のヒット曲と一緒で、全国どこへ行っても“あの歌が聞きたい”という状態。そうなると、こちらも使命感が出てくる。
でも、正直言って、あの技は怖いんです。リング上から勢いよく飛び込むと、軽く5~6メートルは向こうに行きますから。ロープに引っかかる危険性もある。幅といっても50~60センチくらいしかない。僕の場合、もうイチかバチか、気合で跳んでましたね」
実は藤波、凱旋帰国第1戦目で、もうひとつ大技を披露している。ゴッチが考案したドラゴンスープレックスホールドだ。相手を背後から羽交い締めにしたまま、体を反らせて後方に投げ捨てるこの技は、考案者のゴッチも実戦では使用したことがなかった。
藤波によると、理由はこうだ。
「危険すぎて練習相手がいないんです。だから僕もフロリダのゴッチ道場で練習する時は、ダミーの人形を使っていました。人形の名前はロビンソン。ゴッチさんは(もうひとりの名レスラー)ビル・ロビンソンが嫌いだったんでしょう(笑)」
藤波がこの危険な技を初めて公開したのは凱旋帰国直前の78年1月23日のことである。
舞台はプロレスラーなら誰もが憧れるニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン。藤波はこの技でカルロス・ホセ・エストラーダを仕留め、WWWFジュニアヘビー級王座を獲得した。
だが、藤波によると、会場の反応は総じて悪かったという。
「米国のお客さんは、ショーアップされたプロレスを好む。それゆえ、危険を伴う技は封印するという不文律があるんです。だからパイルドライバーやブレーンバスター、ジャーマンスープレックスといった受け身の難しい技はおのずと敬遠される。僕がこの技を出した時も、会場は静まり返っていました」
控室の空気も冷え切っていた。
「僕はチャンピオンベルトを手に意気揚々と引き揚げたんですが、ブルーノ・サンマルチノ、ビリー・グラハム、アンドレ・ザ・ジャイアント、ミル・マスカラスといった大物の視線は冷たかったですね。気まずくなって、僕はタオルを持って通路に出てしまいました。喜んでいたのは新日本プロレスと日本のテレビ局のスタッフだけでした」
先のドラゴンロケット同様、掛ける方も掛けられる方も命がけである。
「失敗すると、相手の体が自分の頭に落ちてくる。自分の体の反り方がよくなくて、バカーンと相手の頭が顔に当たり、歯が折れたこともあります」
それほど危険かつ難易度の高い技を、なぜ藤波は駆使したのか。そこには藤波の意地があった。当時、ジュニアヘビー級はヘビー級の格下に位置付けられており、スピーディーでスリリングなジュニアヘビー級ならではの魅力を、ヘビー級のパワフルな攻防に慣れたファンに訴えたかったのだ。
自らの名前を冠したドラゴンロケットにドラゴンスープレックス。本名の辰巳を名乗っていた頃の藤波は、「青春の輝き」にみちていた。それはちょうどその頃、国内でヒットしていたカーペンターズの曲のタイトルでもある。