絶望からの復活

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 アルペンスキーは冬季オリンピックの花。同時に日本人にとっては“高嶺の花”でもある。06年トリノオリンピックで、メダルにあと一歩と迫った男の苦難と復活の物語。

 

<この原稿は2022年5月5日号の『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

 

 100分の1秒を競うアルペンスキーは冬季五輪の花形競技である。欧州のアルプス地方で発展したことからアルペン(ドイツ語で、“アルプスの”という意味)と呼ばれている。

 

 五輪の個人種目は「ダウンヒル」「スーパーG(スーパー大回転)」「ジャイアントスラローム(大回転)」「スラローム(回転)」「アルペンコンバイン(複合)」の5つ。日本人メダリストは1956年コルチナ・ダンペッツォ(イタリア)大会の猪谷千春ひとりだけ。スラロームで同大会3冠を達成したトニー・ザイラーに次いで2位に入った。この競技で欧州以外の選手が表彰台に立ったのは五輪史上初。なお、この銀メダルは、日本人が冬季五輪で獲得した初めてのメダルでもあった。

 

 まさに冬季五輪のレジェンド・オブ・レジェンドである猪谷が、こう言って唇を噛んだのは、今から16年前の冬のことだ。

 

「残念。100分の3秒と言えば、距離にすれば30センチぐらいじゃないかな。メダルを渡したかった」

 

 この時、猪谷は国際オリンピック委員会(IOC)副会長の要職にあった。

 

 2006年2月25日、トリノ冬季五輪アルペン男子スラローム。同じイタリアの地で猪谷が銀メダルを胸に飾ってから50年が過ぎていた。思わず口を衝いた「残念」との言葉にレジェンドの悔しさがにじんでいた。

 

 猪谷が「メダルを渡したかった」相手――それが今回の主人公・皆川賢太郎である。98年長野大会、02年ソルトレークシティー大会に続いて、3回目の五輪だった。この時、皆川28歳。

 

 スラロームは2回の滑走の合計タイムで順位が決まる。皆川の1本目は本人いわく「納得の滑り」だった。金メダルを獲ることになる1位ベンヤミン・ライヒ(オーストリア)と、わずか100分の7秒差の3位。メダルどころか金メダルも視界にとらえていた。

 

 2本目に進出できるのは1本目の上位30人。スタート順は30位の選手から。1本目3位の皆川は28番スタートとなった。

 

 スラロームは急勾配の雪面に設置されたポールを、腕やヒザでなぎ倒しながら滑っていく。アルペンの中では最もポールの間隔が狭いため、よりターンの正確性が求められる。

 

 2本目を迎える前、皆川は「ギャンブル性の高いレースをする必要はない。8割を心がけよう」と考えていた。

 

 というのも、皆川は98年長野大会、02年ソルトレークシティー大会ともに旗門不通過により失格に終わっていた。ソルトレークシティーでは「歴史をつくるチャンス」との意気込みが裏目に出た。

 

 金メダルを視界にとらえながら、皆川が妙に落ち着いて見えたのは1本目に得た好感触のせいばかりではなかった。選手生命を脅かすような大ケガが人生観を変えたのである。

 

 ソルトレークシティー大会の翌月、国内で行われた大会で右ヒザ前十字靭帯断裂の重傷を負ってしまったのだ。

 

 早くから「天才少年」と呼ばれ、大会に出れば優勝。20歳と24歳で五輪出場を果たした皆川にとって、この大ケガは人生で初めて迎える試練だった。

 

 入院先の病院で、こんなことがあった。

 

「多くの方がお見舞いに来てくれ、病室には、どんどん名刺がたまっていく。皆さん“賢太郎、オマエなら大丈夫だ。必ず復活できる”と僕を励ましてくれた。部屋の隣には喫煙室があり、皆さん自動販売機でジュースやコーヒーを買った後、タバコを一服してから帰る。ある日、壁越しに見舞い客の声が聞こえてきた。“ざまぁみろ!”って。それは、さっきまで僕を励ましてくれていた人の声でした」

 

 普通なら、人間不信に陥るところである。ところが皆川は、足を吊られたままの姿で自らを省みた。

 

「そう言われるのも僕の人間性。挫折を知らなかったんですよ」

 ――天狗になっていたと?

 

「そうです。それまでが、いかに傲慢だったかということでしょう。まだ子供のくせに、メーカーからの契約書に対し、“やり直してこい”なんて言ってましたから。自分を少しでも高く評価してもらいたいという思いが、虚勢につながっていた。さすがにケガをしてよかった、とは思わない。アスリートにとっては絶対にマイナスです。しかし人間として、あのケガから多くのことを学ぶことはできた。そうやってたどり着いた五輪だからこそ、僕にとってのトリノは特別な場所であり、かけがえのない時間でもあったのです」

 

 運命の2本目、しかし皆川は不運に見舞われる。序盤で右ブーツのバックルが外れてしまったのだ。「エッジの調整が悪いのか……」。バックルが外れたことを知らない皆川は瞬時に作戦を切り換える。

 

「このままじゃ危ない。最後の傾斜面だけを攻めよう……」

 

 2本目のタイムは1位と0秒97差の9位。2人を残して合計タイムで3位。まだメダル圏内だ。

 

 ぶしつけな質問を投げた。

 

 ――心のどこかに“転べ”という思いはなかったですか?

 

 これまでの全ての思いを包み込むように、皆川は語った。

 

「僕が順風満帆にいっている選手なら、多分、そう思ったでしょうね。でも大ケガをしてから、もうそんな思いはなくなりました。歩行練習から始まり、やっとここまできた。そちらの方の満足感の方が大きかった。だから結果も冷静に受け入れることができました」

 

 結果は3位ライナー・シェーンフェルダー(オーストリア)から0秒03差の4位タイ。外れたバックルが原因で「右足のかかり」が失われる中、冷静に自らを制御し切ってのフィニッシュ。私の目にその姿は、飛行中に計器が故障したにもかかわらず、何事もなかったように機体を目的地の空港に滑り込ませた熟達のパイロットのように映った。彼は3度目の五輪で自分との戦いに勝利したのである。

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