ひとり占めの夏(斎藤佑樹)
甲子園史上屈指の名勝負と言われる06年夏の決勝・早実対駒大苫小牧戦。全国が注目するマウンドで力投を続けるエースは何を考えていたのか。
<この原稿は2022年4月5日号の『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>
948球――。これは早稲田実業学校(西東京)のエースだった斎藤佑樹が、2006年夏の甲子園で記録した球数である。一大会あたりの球数としては、もちろん歴代最多だ。
高野連は20年春に「球数制限」を導入したため、今後、斎藤の球数が破られることはあるまい。
昨年10月、北海道日本ハムに所属していた斎藤は、シーズン限りでの引退を発表した。このインタビューは、2月初旬に都内で行った。例年ならキャンプ地で汗を流しているところである。
ユニホームに別れを告げた生活に違和感はないか、と問うと、33歳は、こう答えた。
「不思議な感じですね。この前もトレーニングに行っていた時に、テレビでキャンプの映像が流れた。こんな光景を目にするのは初めて。不思議だなと(笑)」
06年夏の甲子園、早実は攻守にバランスのとれたチームで、スコアの上では危な気なく勝ち上がってきた。
1回戦 13対1鶴崎工(大分)
2回戦 11対2大阪桐蔭(大阪)
3回戦 4対1福井商(福井)
準々決勝 5対2日大山形(山形)
準決勝 5対0鹿児島工(鹿児島)
選手権大会には、1915年の第1回大会(全国中等学校優勝野球大会)から出場している名門の早実だが、まだ、この大会を制したことは一度もなかった。(選抜は57年に優勝)
決勝の相手は、史上2校目の3連覇を狙う駒大苫小牧(南北海道)。こちらのエースは前年の夏にも優勝を経験している田中将大(現巨人)。ロースコアの投手戦が予想された。
8月20日、甲子園球場。
試合前、斎藤はこう考えていた。
「相手の田中から、点は取れない。どう頑張って取っても1点。勝つには僕がゼロで抑えるしかない。1対0しか、勝ち目はないと……」
1回表、斎藤はいきなりピンチを招く。2死二塁でバッターは4番・本間篤史。2球目のスライダー、甲高い金属音を発した打球は右中間へ。
「あっ、ヤバイと思いましたよ。打球のスピード、角度からしたら入ったかなと。彼はあっちに打つのが巧いんです」
早実と苫小牧は、前年秋の神宮大会準決勝でも対戦し、この時は苫小牧が5対3で逆転勝ちをしていた。斎藤は本間にホームランを打たれていた。
「あの打球、普通なら入ってますよ。ところが打球が上がった瞬間、ピューッと風が吹き、押し戻されたんです。(好捕した)センターの川西啓介が“たぶん、風がなかったら入っていた”と話していました」
早実に“神風”が吹いたのだ。
先制したのは苫小牧。8回表、1死から2番・三木悠也が初球のストレートをバックスクリーンに叩き込んだ。
しかし、その裏、早実もすかさず反撃を開始する。1死から3番・桧垣皓次朗が左中間にツーベース。中継プレーが乱れるスキを突いて三塁を陥れた。3回途中からマウンドに上がっていた田中が喫したこの試合、初めての長打だった。続く4番・後藤貴司がセンターに大飛球を放ち、これが犠牲フライとなって早実は同点に追いついた。
延長11回表、この試合、最大の山場が訪れる。苫小牧はヒットと死球でチャンスをつくり、犠打と敬遠四球で1死満塁。打席には、途中出場の岡川直樹。甲子園では、まだ無安打。
振り返って斎藤は語る。
「スクイズをやってくるシチュエーションですよね。どこでやってくるかはわかりませんでしたけど……」
カウント1-1からの3球目、斎藤は外角低めにスライダーを投じた。バットが空を斬る。ワンバウンドの難しいボールだったが、キャッチャー白川英聖は慌てずに前へ落とし、三塁へ送球。三塁走者の中澤竜也はヘッドスライディングで帰塁したものの、わずかに届かなかった。
斎藤が続ける。
「三塁ランナーの動きは視界に入っていました。そこでワンバウンドを投げた。同じスライダーでもストライクを取るボールと、振らせるボールがある。振らせたい時は、ちょっと長めに持って叩きつけるんです。それがうまくいった。
キャッチャーの白川もよく捕りました。今までの白川だったら、もっとバタバタしていたかもしれない。彼は元々ピッチャーだからワンバウンドの処理は、あまり上手くなかった。その欠点を補おうと、よく練習していたんです。その成果が出ましたね」
最大のピンチを切り抜けた早実は13回裏、サヨナラ勝ちのチャンスを迎える。ヒットと犠打、ワイルドピッチもからみ2死三塁。ここで苫小牧は満塁策を選択した。
迎えるバッターは5番・船橋悠。ベンチ前の斎藤は、どんな思いで、このシーンを見守っていたのか。
「僕は複雑な気持ちでしたね。だって、あそこで点が入ってサヨナラ勝ちになれば、僕はマウンドで試合を終えることはできない。ここまで、ずっとひとりで投げ続けていた僕としては“ちょっと嫌だな”という思いもありました。おいしいところは全部(打ったバッターに)持っていかれちゃうわけですから(笑)」
――ナルシストですね(笑)。
「そう、めちゃくちゃナルシストですよ」
延長15回表2死、斎藤は4番・本間に、この日最速の147キロのストレートを投じた。しかも外角低めに。そして、6球目、フォークボールで空振り三振。圧巻のピッチングでスタンドの視線をひとり占めにした。
翌日、再試合。早実は4対3で苫小牧を破り、初めて夏の選手権を制した。薄曇りの甲子園、歓喜の輪の中心には2日間で296球を投げ抜いた斎藤がいた。