第1199回 発言まで“満点”ウルフの堂々プロレスデビュー
誰であれ初陣には、どこかぎこちなさが伴うものだが、21年東京五輪の柔道金メダリスト(男子100キロ級)ウルフアロンのプロレスデビューは、試合によどみがなく、満点に近い出来だった。入場ゲートで純白の柔道着を脱ぎ捨て、黒のショートタイツ姿で花道を歩いた。新日本プロレスの創設者であるアントニオ猪木さんが提唱した「ストロング・スタイル」を継承するとの強いメッセージが込められているように映った。
オリンピアンからプロレスラーへの転身といえば、2000年5月に他界したジャンボ鶴田(本名・鶴田友美)さんを思い出す。72年ミュンヘン五輪のレスリング・グレコローマンスタイル(100キロ超級)に出場した鶴田さんを、全日本プロレスは三顧の礼で迎えた。「僕のような大きな体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かと思いまして。尊敬する馬場さんの会社を選びました」。入団に際してのこの発言は、「全日本プロレスに就職します」と簡略化して伝えられた。
プロレスラーも、所詮はサラリーマンなのか。これから生き馬の目を抜くプロレス界で生きていこうとする者の発言としては、どうなのか。鶴田さんのセンスを疑う声も聞かれたが、馬場さんはご満悦だったようだ。自らが創設して間もないプロレスの運営会社を、大卒のオリンピアンが「就職」先に選んでくれた喜びは、ひとしおだったにちがいない。
日本のプロレス界にとって、五輪は草創期から高嶺の花だった。それは日本プロレスの創設者である力道山が、五輪にヒントを得て1959年に「ワールド大リーグ戦」(第6回大会から「ワールドリーグ戦」)を開催したことからも明らかである。東京都は55年10月に招致委員会を設置し、五輪の招致活動に乗り出す。59年5月のIOC総会で、64年大会の開催都市に決定。一連の動向を追いながら力道山は、朝日、毎日、読売がプロレス報道から撤退し、低迷を余儀なくされていた日本プロレスの起死回生策を練っていた。「世界チャンピオンが揃う、世界で最強の男を決める大会」。それが「ワールド大リーグ戦」だった。
今は亡きプロレス評論家の菊池孝さんによると、当初の計画では大会名は「プロレス・オリンピック」となっていた。ところが、このことがIOCの耳に入り、あえなくお蔵入りに。「さしもの力さんも、IOCには勝てなかったようだね」。プロレスと五輪には、そんな因縁もあるのだ。
衝撃のデビュー戦。試合後の会見で、五輪レスリング王者のカート・アングルばりの「オリンピック・スラム」について聞かれたウルフは、「その言葉はIOCに怒られちゃうんで。すいません。アングル・スラムでお願いします」と小声で言った。このウィットには、泉下の力道山も、きっと苦笑いを浮かべていたはずである。
<この原稿は26年1月7日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>
