石川県七尾市にある「松平スポーツ」に隣接する卓球場。ここが松平健太の原点である。「松平スポーツ」は両親が経営する卓球用品店。店の隣りの卓球場では、国体選手だった父親の指導の下、卓球教室が開かれていた。そこに健太は5歳から通い、既に卓球を始めていた2人の兄とともに、技術を磨いていった。松平兄弟にとっては、学校帰りに卓球場へ向かうコースが、遊び場のひとつだった。
「試合は好きだったけど、練習は嫌いだった」という松平は、大会1週間前になって、ようやく本格始動する。2人の兄と比べても、練習熱心とは言えなかった。父親も練習を決して強制しなかったという。そうした自由な環境が松平には合っていたのだろう。小学2年になると、全日本選手権バンビの部(小学2年以下)で優勝。6年時には同大会ホープスの部(小学6年以下)を制した。以降、松平は常に世代のトップを走り続けた。

 現在、松平のスタイルとなっている台から離れずに相手の球を打ち返す戦法も子どもの頃に培われたものだ。父親による「前で(相手の球を)受けなさい」という指導に加え、卓球場が横長で台から壁まで2メートルほどしかなく、離れて打つほどのスペースがあまりなかったのだ。こうした環境の下、台の近くで打ち返す戦法が自然と身についていった。

 環境の変化で芽生えた自覚

 松平は、小学生の頃から卓球で世界一になることを目標としていた。それでも「行動には移せていなかった」と、自らも認めている通り、この頃の松平は努力をしていなかった。だが、環境の変化が彼を変えた。中学1年の9月、2歳上の兄・賢二とともに名門の青森山田学園中等部に転校した。そこには全国から将来を嘱望された選手たちが大勢いた。「日本のトップ選手や世界を目指している人たちとやることによって、段々、意識は変わってきました」。ほとんど練習をしてこなかった松平にとって、1日6時間ほど行う青森山田の練習はついていくだけで精一杯だったという。それでも高いステージでもまれたことによって、自らの成長を実感できた。

 2年で全日本選手権一般の部でベスト16に入ると、3年時の世界ジュニア選手権では、弱冠15歳で優勝を果たした。「目標はベスト8でしたから、優勝した自分が一番驚いていました」。当然、周囲からは大きな期待を寄せられるようになった。ただ松平自身は「自分としては、まだ実力がないと思っていた」と、自己評価と他己評価とのギャップを感じていた。というのも、彼は中学2年時にシニアのITTFワールドツアーに初参戦したものの、1勝もできなかった。「“世界は広いな”と感じ、“もっと強くならなければ”と思いました」と、世界との差を肌で感じ取っていた。だからこそ、ジュニアで頂点に立ったことで、決して浮かれることはなかった。

 松平は高校2年の夏からドイツへ留学。青森山田の臨時コーチを務めていたキュウ・ケンシンに指導を仰ぐためだった。またキュウ・ケンシンがブンデスリーガ1部の名門フリッケンハオゼンの監督を務めていたこともあり、松平は世界最高峰リーグでのプレーも経験した。「向こうではプロとしてやらないといけなかった。試合も練習も頑張らないといけない生活でした」。まさに卓球一色の生活。レベルの高い選手たちに囲まれ、プロしての心構えのようなものを学んだ。そしてドイツ1シーズン目の09年、全日本選手権の決勝で水谷準に敗れたものの準優勝。同年、18歳で迎えた世界選手権の横浜大会では、ベスト16に残った。

 格上を連破、覚醒の理由

 順調に成長の階段を上っていたかに見えたが、五輪の舞台を目前にして足踏みを余儀なくされた。11年の世界選手権ロッテルダム大会直前までは、ITTF世界ランキング32位で日本人2位。ロンドン五輪の個人戦での出場圏内にいた。しかし、体調を崩し、本大会は男子シングルスで格下相手に初戦敗退。大会後、ランキングで岸川聖也に抜かれた。「練習をやり過ぎたせいで、体調管理ができていなかった。自分のことを全然わかっていなかったんです」。自らを追い込み過ぎ、結果としてコンディションを落としてしまったことが原因だった。

 個人戦での出場はなくなったが、それでも団体戦に出場するとなれば日本代表のエントリーは3人。水谷、岸川に次ぐ最後の1枠が残っている。しかし、12年3月の世界選手権団体戦のドルトムント大会では代表から漏れ、4月のロンドン五輪アジア予選には3歳下の丹羽孝希が出場した。その丹羽はマ・ロン(中国)を倒すなど、自らの手で五輪切符を掴み取った。松平のロンドン五輪出場は叶わなかった。「逃したという思いもありますが、その時の状態だとやっぱり選ばれなくて当たり前の成績しか残せていなかった。素直に認めざるを得なかったですね」。この時期を周囲からは“伸び悩み”や“低迷”と言われたが、本人は“実力不足”と強調する。そして、その翌年から覚醒の時を迎えた。

 きっかけはフィジカルの強化にあった。10年4月から全日本ではフィジカルの強化を図っていた。当時の代表監督だった宮崎義仁が専属のトレーニングコーチの必要性を説き、田中礼人を招聘した。ロンドン五輪後にコーチの倉嶋洋介が監督を引き継いでも、その体制は変わらなかった。

 トレーナーの田中は、松平の覚醒の理由をこう語る。「彼の意識が変わったということが一番大きいところだったと思いますね。トレーニングは継続しないと効果が出てこないんです」。松平は、代表合宿以外の時でもナショナルトレーニングセンターに通っていた。その積み重ねが地力となったのだ。最近の体力測定では、ほぼ全項目でトップ3に入るまで成長したという。「健太の悪かったところは、筋力が弱かったので、動いているうちにお尻が落ちてきていた。つまり重心が下がり、動けなくなってしまうことが多かったんです。最近は筋力がついてきたので、いい姿勢を維持できるようになりました」。フットワークも良くなり、身体の軸がブレないことで安定したショットが打てるようになった。

 フィジカル数値は右肩上がり。その効果は5月の世界選手権パリ大会では結果となって表れた。松平は持ち前の武器であるブロック技術やサーブに加え、相手に振り回されてもフットワークで動き切って、打ち返し続けることができた。その結果、マ・リン(中国)、ウラディミル・サムソノフ(ベラルーシ)の元世界ランク1位を撃破し、世界ランク1位のキョ・キン(中国)とは好ゲームを展開した。「特に格上のマ・リン選手とサムソノフ選手に勝ったことはすごく自信になりました。両選手とも大きい舞台で簡単に勝てるような選手ではないので」

 確かな自信を手にした松平は、パリ大会以降も快進撃を続けた。7月のアジア選手権では、格上の中国選手を破るなど3位に入り、銅メダルを獲得。8月のワールドツアー中国オープンでは、世界ランク3位のワン・ハオ(中国)から勝利を収めた。ワン・ハオはアテネ五輪から3大会連続で、銀メダル(男子シングルス)を獲得している世界トップ選手の1人だ。09年の世界選手権を制しており、世界ランキング1位になったこともある。その相手に、松平はストレート勝ちしたのだ。

 打倒・中国のキーマンに

 今月14日、松平は来年4月に東京で行われる世界選手権団体戦の日本代表に男子でただ1人内定した。現在のITTF世界ランキングは15位で、日本人では水谷準(13位)に次ぐ2位だが、今年の国際大会で世界ランク30位以内の選手4人以上に勝つという代表選考基準を唯一満たしているからだ。全日本の倉嶋監督は、松平にはチームの軸としての期待を寄せている。

 日本が、同大会6連覇中の中国の牙城を崩すためには、個人のレベルアップが必須である。倉嶋は松平に対しては「ボールの速さ、威力はまだない。速射砲のように連続して打って決めるというところまではきているのですが、一発で決められるようなボールはまだ持っていない」ことを課題に挙げる。

 ブロックの技術に関しては、松平は世界のトップ選手にも負けないという自負がある。だからこそ倉嶋の言う「決め切る力」、すなわち攻撃力が必要だと、松平も感じている。「(ブロックだけでは)苦しい部分もありますから、自分のパワーで決められるようになれば、と思っています。ブロックだけに偏ってもダメだし、打つだけにも偏ってもダメ。両方をバランス良くやることが、僕の理想のプレースタイルですね」

 プレーヤーとしての理想像を松平は「尊敬され、憧れられるようになりたいです。でもプレー自体は真似できない選手」と語る。彼の到達点は“20年にひとりの逸材”でもなければ“ワルドナーの再来”でもない。「松平健太」という唯一無二の存在なのだ。来年4月、世界ランク上位を独占し、ほぼ独走状態の中国勢に待ったをかけられるか。“卓球NIPPON”の希望は、22歳でついに覚醒した“天才”に託されている。

(おわり)
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松平健太(まつだいら・けんた)プロフィール>
1991年4月11日、石川県生まれ。父と2人の兄の影響で5歳から卓球を始め、父の経営する卓球教室で練習を積んだ。中学2年からは親元を離れ、名門・青森山田中学に編入する。3年時には06年世界ジュニア選手権男子シングルスで日本人としては27年ぶりの世界大会優勝を成し遂げた。09年には全日本選手権の男子シングルスで準優勝。その年の世界選手権ではベスト16入りを果たす。今年5月の世界選手権では男子シングルスでベスト8に入り、メダルまであと一歩と迫った。7月のアジア選手権では団体銀メダルに貢献し、個人戦でもシングルスとダブルスでいずれも銅メダルを獲得した。ITTF世界ランキング15位(12月24日現在)。身長169センチ、右シェークドライブ攻撃型。

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(文・写真/杉浦泰介)
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