田中礼人(卓球男子日本代表フィジカルコーチ)<後編>「塩野、松平が示すフィジカル強化の重要性」
日本男子卓球界で昨年、最も飛躍した選手が2人いる。27歳の塩野真人と、次期エースの呼び声高い23歳の松平健太である。特に周囲を驚かせたのは、塩野である。それまで全日本選手権でのベスト16が最高成績だった塩野は、国際大会では1勝も挙げていなかった。そんな塩野が、昨年はワールドツアーで2勝を挙げる活躍を見せた。188位だった世界ランキングは、今や26位にまで上がっている(4月4日現在)。この塩野の快進撃の要因を語るのに、欠かすことのできない人物がいる。2010年から卓球男子日本代表のフィジカルコーチを務める田中礼人だ。
“遅咲きのカットマン”塩野の意識変化
「トレーニングを重ねて、本物の選手になってきましたね。フィジカルな部分を鍛えることによって、成績が上がってきた最も顕著な例です」と宮義仁前監督(現「2020ターゲットエイジ育成・強化プロジェクト(タレント発掘・育成コンソーシアム)」コーディネーター)が言えば、コーチ時代から彼を見ている現監督の倉嶋洋介は「田中トレーナーは、弱音を吐く選手にもトレーニングの重要性や効果を説明して、粘り強くやらせようとする。その効果が最も表れているひとりが、塩野だと思います」と語る。それほど塩野の変化、そして成長には目を見張るものがあった。
待望のワールドツアー初勝利を挙げたのは、6月のジャパンオープン萩村杯。シングルスに出場した塩野は、1回戦を世界ランキング6位の荘智淵(台湾)に勝利すると、2回戦では松平、準々決勝では丹羽孝希と、現在最も勢いのある若手2人を撃破。準決勝では日本のエース水谷隼を破った世界ランキング26位の陳建安(台湾)に勝利した。そして決勝では、12年世界ジュニア選手権金メダリストの徐晨皓(中国)にストレート勝ち。次々と格上の相手を破り、初優勝を果たした。さらにその2カ月後にはチェコオープンでも優勝。早くもツアー2勝目を挙げ、世界ランキングを一気に52位まで上げた。
それは12年までの塩野には、想像すらできない姿であった。果たして、何が塩野を変えたのか――。
田中が就任した当初、塩野は代表に入ったり、入らなかったりという選手だった。
「正直言って、世界を目指しているという気持ちは見えてきませんでした」
そう田中が厳しい口調になるのも、当然だった。塩野は大の甘いもの好き。加えて油ものやお酒も大好きだった。しかし、アスリートならそれらを「控える」ことは、今や常識と言っても過言ではない。ところが、塩野にそうした意識はほとんど見られなかった。体脂肪率は、およそアスリートとは思えない数字だったという。
「もちろん、脂肪はエネルギーになるので、まったく不要なものではありません。競技によってはあったほうがいいものもある。でも、瞬発的な動きを繰り返す卓球では、ほとんど無駄な重りにしかならない。やはり脂肪は少ない方がいい。一昨年の塩野の体脂肪率は、僕から言わせたらアスリートとしてあり得ない数字だったんです」
田中は幾度となく、塩野に助言を行なった。時には「このまま終わってしまうのか?」という厳しい言葉を投げかけたこともあったという。それは、塩野に伸びしろを感じていたからに他ならない。「きちんとフィジカルを鍛えれば、まだまだレベルアップできるのに……」。そんな気持ちがあったからこそ、田中は何度も塩野に食事面でのアドバイスや、フィジカルトレーニングの重要性を説き続けたのだ。
代表合宿に参加するたびに、田中から助言をもらうことで、塩野の意識は徐々に変化していった。食事面では油ものや甘いものを控えるようになり、それまでほとんどしていなかったフィジカルトレーニングも積極的に行うようになっていった。無駄な脂肪がとれていき、体脂肪率はアスリートの標準並みまで落ちた。必要な筋量を残しつつ、体重の減量にも成功した。その結果、以前はよく訴えていた腰の痛みも、今ではまったく言わなくなったという。
「塩野は、相手からの打球をバックスピンなどをかけて返す、いわゆる“カットマン”なんです。カットマンは卓球台から離れて打つので、左右前後に大きく動かなければなりません。だから他のスタイルの選手よりも、体力が必要となる。それなのに脂肪が多いと機敏な動きもできませんし、すぐにバテてしまう。もちろん、ケガの原因にもなります。でも、体を絞った今は、動きにキレが出てきましたね。打球への一歩目が速いので、守備範囲が広がったと思うんです。腰の痛みもないようですし、実力を発揮できる身体になったことで、結果にも結びついているのだと思います」
意識変化によって、肉体改造に成功した塩野は、28日に開幕した「JA全農2014世界卓球団体選手権東京大会」にも初選出されている。唯一の“カットマン”として、活躍が期待される。
松平、フィジカル強化で快進撃
一方、フィジカル面を見直し、強化することによって、パフォーマンスの向上を遂げたのは、松平だ。田中が松平に初めて会ったのは、10年2月のカタールオープン。当時は、研修として日本代表に帯同していた。第一印象は「大人しくて、ひょろっとした体の細い選手」だった。だが、その後、田中が正式に専任トレーナーに就くと、合宿や大会で帯同するたびに、自らトレーニングについて最も積極的に聞いてくる選手のひとりが、松平だった。
その頃、松平はちょうどスランプに陥っている状態だった。10年1月の全日本選手権では、まさかの初戦敗退を喫するなど、最高34位まで上がっていた世界ランキングは同年8月には67位にまで落ちた。「悩んでいた時期で、健太自身がいろいろと変化を求めていたこともあったんでしょうね」と田中は自分にアドバイスを求めてきた松平の心境をそう分析する。
松平に助言したのは、ウォームアップやクールダウンをすることの意味、トレーニングの重要性、食事面での意識など、特別なことではなかった。
「合宿で僕に言われた時は、みんな素直にやってくれるんです。でも、それをどう持続させていくかがとても重要で、合宿以外でどうするかが実は一番大事。その点、健太は合宿がない日にも、僕の出勤日にはナショナルトレーニングセンターに来てトレーニングを行なったり、自分でジムに行った時には何をすればいいのかを聞いてきたりして、意識が高い選手でしたね」
松平の身体はみるみるうちに変わっていった。それはプレーにも如実に表れていた。
「以前の健太は筋力が不足していたので、打っているうちに、どんどんお尻が落ちてしまっていたんです。そうすると、重心がかかとの方にかかってしまう。重心が落ちる分には低い姿勢がキープできていいんですけど、それが後ろにいってしまっているので、足が動かなくなるんです。それで試合の後半で粘り切れなくて、負けてしまうということも少なくなかった。それが、お尻や太ももの裏の筋力がついてきて、いい姿勢をキープできるようになってきました。筋力アップしたことが最後までフットワークの良さを維持できるようになった要因になっていると思います」
さらに体幹を鍛えることで、左右に振られても、身体の軸がブレず、安定したショットが打てるようなった。
田中が松平のプレーに変化の兆しを感じたのは、昨年5月、パリで行われた世界選手権だった。それまでのワールドツアーでもいい動きを見せていた松平だったが、その大会での動きは目を見張るものがあったという。
「以前は左右に振られると、ボールに飛びついて、返すだけで終わっていた。逆サイドに振られたら、もう届かなかったんです。それがその大会では飛びついても、いい姿勢で着地ができていたので、次の打球に対して、すぐに反応できる体勢になっていたんです」
同大会で松平は、シングルス2回戦で北京五輪金メダリストの馬琳(中国)を4−1で破る大金星を挙げ、結果として日本人最高位のベスト8進出を果たした。さらに7月のアジア選手権では銅メダルを獲得。8月の中国オープンでは、世界ランキング3位の王皓(中国)にストレート勝ちを収めた。
こうした塩野、そして松平の躍進は、もちろん技術的、戦術的な要素も多分に含まれている。だが、それらを実行に移すにはやはり、土台であるフィジカルの要素が欠かせない。これは何もトップ選手だけに言える話ではない。田中はこう語っている。
「ウォームアップやクールダウン、そしてフィジカルトレーニングというのは傷害の予防と、パフォーマンスの向上という2つの大きな目的があります。傷害を予防することによって、計画的に練習を行うことができ、だからこそ技術的なスキルアップが見込める。そのことを広く理解してもらえれば、若い世代でグンと伸びる選手はたくさん出てくるはずです」
日本卓球協会では現在、ナショナルチームをトップとして、18歳以下を対象としたジュニアナショナルチーム、12歳以下を対象としたホープスナショナルチームという3つのカテゴリーを設け、タレント発掘事業や一貫教育を行なっている。トレーニングにおいて一貫して担当しているのが田中だ。年齢に応じたトレーニングを実施することで、傷害の予防とパフォーマンスの向上を目指している。
田中は自らの役割をこう語る。
「この一貫教育のトレーニングプログラムを確立させ、近い将来、日本代表が目標達成できる一助となればと思っています。これからも全力を尽くしてサポートしていきます」
日本代表の目標――もちろん、それは五輪での金メダルだ。特に一度も五輪の表彰台には上がっていない日本男子にとっては、まさに究極の目標である。その日が訪れることを信じて、田中は選手たちの指導に勤しんでいく覚悟だ。
(おわり)
<田中礼人(たなか・あやと)>
1983年12月18日、埼玉県生まれ。小学1年から野球を始め、甲子園を目指して埼玉栄高に進学。2年春にはセンバツに出場し、練習要員として甲子園の土を踏んだ。高校在学中にスポーツトレーナーの道を考え始める。専門学校を経て、仙台大学に進学し、トレーニングの知識や技術を学ぶ。大学卒業後、森永製菓株式会社(ウイダートレーニングラボ)に入社。2010年4月より卓球男子日本代表の専属フィジカルコーチ(ストレングス&コンディショニングコーチ)を務める。12年3月に森永製菓を退職し、独立。現在は日本卓球協会と個人契約を結んでいる。ストレングス&コンディショニングスペシャリスト(CSCS)、パーソナルトレーナー(NSCA-CPT)、NSCAジャパン認定検定員、南関東アシスタント地域ディレクターの資格をもつ。
NSCAジャパンHP
(文・写真/斎藤寿子)
“遅咲きのカットマン”塩野の意識変化
「トレーニングを重ねて、本物の選手になってきましたね。フィジカルな部分を鍛えることによって、成績が上がってきた最も顕著な例です」と宮義仁前監督(現「2020ターゲットエイジ育成・強化プロジェクト(タレント発掘・育成コンソーシアム)」コーディネーター)が言えば、コーチ時代から彼を見ている現監督の倉嶋洋介は「田中トレーナーは、弱音を吐く選手にもトレーニングの重要性や効果を説明して、粘り強くやらせようとする。その効果が最も表れているひとりが、塩野だと思います」と語る。それほど塩野の変化、そして成長には目を見張るものがあった。
待望のワールドツアー初勝利を挙げたのは、6月のジャパンオープン萩村杯。シングルスに出場した塩野は、1回戦を世界ランキング6位の荘智淵(台湾)に勝利すると、2回戦では松平、準々決勝では丹羽孝希と、現在最も勢いのある若手2人を撃破。準決勝では日本のエース水谷隼を破った世界ランキング26位の陳建安(台湾)に勝利した。そして決勝では、12年世界ジュニア選手権金メダリストの徐晨皓(中国)にストレート勝ち。次々と格上の相手を破り、初優勝を果たした。さらにその2カ月後にはチェコオープンでも優勝。早くもツアー2勝目を挙げ、世界ランキングを一気に52位まで上げた。
それは12年までの塩野には、想像すらできない姿であった。果たして、何が塩野を変えたのか――。
田中が就任した当初、塩野は代表に入ったり、入らなかったりという選手だった。
「正直言って、世界を目指しているという気持ちは見えてきませんでした」
そう田中が厳しい口調になるのも、当然だった。塩野は大の甘いもの好き。加えて油ものやお酒も大好きだった。しかし、アスリートならそれらを「控える」ことは、今や常識と言っても過言ではない。ところが、塩野にそうした意識はほとんど見られなかった。体脂肪率は、およそアスリートとは思えない数字だったという。
「もちろん、脂肪はエネルギーになるので、まったく不要なものではありません。競技によってはあったほうがいいものもある。でも、瞬発的な動きを繰り返す卓球では、ほとんど無駄な重りにしかならない。やはり脂肪は少ない方がいい。一昨年の塩野の体脂肪率は、僕から言わせたらアスリートとしてあり得ない数字だったんです」
田中は幾度となく、塩野に助言を行なった。時には「このまま終わってしまうのか?」という厳しい言葉を投げかけたこともあったという。それは、塩野に伸びしろを感じていたからに他ならない。「きちんとフィジカルを鍛えれば、まだまだレベルアップできるのに……」。そんな気持ちがあったからこそ、田中は何度も塩野に食事面でのアドバイスや、フィジカルトレーニングの重要性を説き続けたのだ。
代表合宿に参加するたびに、田中から助言をもらうことで、塩野の意識は徐々に変化していった。食事面では油ものや甘いものを控えるようになり、それまでほとんどしていなかったフィジカルトレーニングも積極的に行うようになっていった。無駄な脂肪がとれていき、体脂肪率はアスリートの標準並みまで落ちた。必要な筋量を残しつつ、体重の減量にも成功した。その結果、以前はよく訴えていた腰の痛みも、今ではまったく言わなくなったという。
「塩野は、相手からの打球をバックスピンなどをかけて返す、いわゆる“カットマン”なんです。カットマンは卓球台から離れて打つので、左右前後に大きく動かなければなりません。だから他のスタイルの選手よりも、体力が必要となる。それなのに脂肪が多いと機敏な動きもできませんし、すぐにバテてしまう。もちろん、ケガの原因にもなります。でも、体を絞った今は、動きにキレが出てきましたね。打球への一歩目が速いので、守備範囲が広がったと思うんです。腰の痛みもないようですし、実力を発揮できる身体になったことで、結果にも結びついているのだと思います」
意識変化によって、肉体改造に成功した塩野は、28日に開幕した「JA全農2014世界卓球団体選手権東京大会」にも初選出されている。唯一の“カットマン”として、活躍が期待される。
松平、フィジカル強化で快進撃
一方、フィジカル面を見直し、強化することによって、パフォーマンスの向上を遂げたのは、松平だ。田中が松平に初めて会ったのは、10年2月のカタールオープン。当時は、研修として日本代表に帯同していた。第一印象は「大人しくて、ひょろっとした体の細い選手」だった。だが、その後、田中が正式に専任トレーナーに就くと、合宿や大会で帯同するたびに、自らトレーニングについて最も積極的に聞いてくる選手のひとりが、松平だった。
その頃、松平はちょうどスランプに陥っている状態だった。10年1月の全日本選手権では、まさかの初戦敗退を喫するなど、最高34位まで上がっていた世界ランキングは同年8月には67位にまで落ちた。「悩んでいた時期で、健太自身がいろいろと変化を求めていたこともあったんでしょうね」と田中は自分にアドバイスを求めてきた松平の心境をそう分析する。
松平に助言したのは、ウォームアップやクールダウンをすることの意味、トレーニングの重要性、食事面での意識など、特別なことではなかった。
「合宿で僕に言われた時は、みんな素直にやってくれるんです。でも、それをどう持続させていくかがとても重要で、合宿以外でどうするかが実は一番大事。その点、健太は合宿がない日にも、僕の出勤日にはナショナルトレーニングセンターに来てトレーニングを行なったり、自分でジムに行った時には何をすればいいのかを聞いてきたりして、意識が高い選手でしたね」
松平の身体はみるみるうちに変わっていった。それはプレーにも如実に表れていた。
「以前の健太は筋力が不足していたので、打っているうちに、どんどんお尻が落ちてしまっていたんです。そうすると、重心がかかとの方にかかってしまう。重心が落ちる分には低い姿勢がキープできていいんですけど、それが後ろにいってしまっているので、足が動かなくなるんです。それで試合の後半で粘り切れなくて、負けてしまうということも少なくなかった。それが、お尻や太ももの裏の筋力がついてきて、いい姿勢をキープできるようになってきました。筋力アップしたことが最後までフットワークの良さを維持できるようになった要因になっていると思います」
さらに体幹を鍛えることで、左右に振られても、身体の軸がブレず、安定したショットが打てるようなった。
田中が松平のプレーに変化の兆しを感じたのは、昨年5月、パリで行われた世界選手権だった。それまでのワールドツアーでもいい動きを見せていた松平だったが、その大会での動きは目を見張るものがあったという。
「以前は左右に振られると、ボールに飛びついて、返すだけで終わっていた。逆サイドに振られたら、もう届かなかったんです。それがその大会では飛びついても、いい姿勢で着地ができていたので、次の打球に対して、すぐに反応できる体勢になっていたんです」
同大会で松平は、シングルス2回戦で北京五輪金メダリストの馬琳(中国)を4−1で破る大金星を挙げ、結果として日本人最高位のベスト8進出を果たした。さらに7月のアジア選手権では銅メダルを獲得。8月の中国オープンでは、世界ランキング3位の王皓(中国)にストレート勝ちを収めた。
こうした塩野、そして松平の躍進は、もちろん技術的、戦術的な要素も多分に含まれている。だが、それらを実行に移すにはやはり、土台であるフィジカルの要素が欠かせない。これは何もトップ選手だけに言える話ではない。田中はこう語っている。
「ウォームアップやクールダウン、そしてフィジカルトレーニングというのは傷害の予防と、パフォーマンスの向上という2つの大きな目的があります。傷害を予防することによって、計画的に練習を行うことができ、だからこそ技術的なスキルアップが見込める。そのことを広く理解してもらえれば、若い世代でグンと伸びる選手はたくさん出てくるはずです」
日本卓球協会では現在、ナショナルチームをトップとして、18歳以下を対象としたジュニアナショナルチーム、12歳以下を対象としたホープスナショナルチームという3つのカテゴリーを設け、タレント発掘事業や一貫教育を行なっている。トレーニングにおいて一貫して担当しているのが田中だ。年齢に応じたトレーニングを実施することで、傷害の予防とパフォーマンスの向上を目指している。
田中は自らの役割をこう語る。
「この一貫教育のトレーニングプログラムを確立させ、近い将来、日本代表が目標達成できる一助となればと思っています。これからも全力を尽くしてサポートしていきます」
日本代表の目標――もちろん、それは五輪での金メダルだ。特に一度も五輪の表彰台には上がっていない日本男子にとっては、まさに究極の目標である。その日が訪れることを信じて、田中は選手たちの指導に勤しんでいく覚悟だ。
(おわり)
<田中礼人(たなか・あやと)>
1983年12月18日、埼玉県生まれ。小学1年から野球を始め、甲子園を目指して埼玉栄高に進学。2年春にはセンバツに出場し、練習要員として甲子園の土を踏んだ。高校在学中にスポーツトレーナーの道を考え始める。専門学校を経て、仙台大学に進学し、トレーニングの知識や技術を学ぶ。大学卒業後、森永製菓株式会社(ウイダートレーニングラボ)に入社。2010年4月より卓球男子日本代表の専属フィジカルコーチ(ストレングス&コンディショニングコーチ)を務める。12年3月に森永製菓を退職し、独立。現在は日本卓球協会と個人契約を結んでいる。ストレングス&コンディショニングスペシャリスト(CSCS)、パーソナルトレーナー(NSCA-CPT)、NSCAジャパン認定検定員、南関東アシスタント地域ディレクターの資格をもつ。
NSCAジャパンHP
(文・写真/斎藤寿子)