フランスはジダンの2発によって、限りなくFIFA杯に近づいた。課題とされていたストライカー不在は、堅固なディフェンスとセットプレーの巧みさによって覆い隠された。ジャッケのチームは最後のゲームで「イヴ・サンローラン」のコレクションにも勝る完璧なパフォーマンスを演じることに成功した。
<この原稿は2002年発行の『ワールドカップを読む』(KKベストセラーズ)に掲載されたものです>

 後半、2点を追うブラジルはパスミスの目立つレオナルドに代え、ドリブラーのデニウソンを投入した。両サイドのカフーとロベルト・カルロスはアクセルを目一杯吹かせてタッチラインを攻め上がった。しかし、意思の疎通を欠いたアタックは、デサイーを中心とする青い壁に何度もはね返され、そのつど、バックスタンドの右隅に陣取ったカナリアの一団からサンバのリズムを奪い取った。
 後半10分、ロベルト・カルロスのクロスをファーサイドで受けたロナウドがワントラップして右足でシュート。だが、またしてもシュートはGKの正面をついた。

 その後もブラジルは果敢に攻めたが、青い壁は動じなかった。危険な場所には常にデサイーがいて、ブラジルのフィニッシュを未遂に終わらせた。左サイドのロベルト・カルロスはテュラムによって、左足の威力を削ぎ落とされた。ドリブラーのデニウソンは、コマーシャル・フィルムそっくりの芸をピッチの上でも披露したが、それはほとんど曲芸の領域に属するテクニックに過ぎず、逆にゴールへの期待をしぼませた。

 リベルテの次はエガリテ(平等)である。後半23分のことだ。守りの要であるデサイーが、この夜、2枚目のイエローカードを切られた。その直後、周囲のフランス人が一斉に立ち上がり「イネガリテ!」と叫んだ。「イネガリテ」とはエガリテの否定形。つまり公平ではない、平等ではないというわけだ。

 奇妙なブーイングがスタジアムを席巻した。「ブー」という例のそれではなく、「スー」という歯の隙間から鳴らされる憎しみのこもったレフェリー批判。
 この瞬間、ピッチの最高権力者であるモロッコ人レフェリーは、あたかもルイ16世のように処刑の対象になった。革命という名の民衆の祭りには、権力を有した憎々しげないけにえの存在が不可欠である。自分たちを受難者だと定めた時、そのエネルギーはいよいよ倍増する。そして、そのエネルギーの暴発こそが、実は「革命」の正体だということを私たちは知っている。

 デサイーを欠き、残り20分以上の時間をどうしのぎ切るか。本調子からは程遠い出来とはいえ、相手はブラジルである。1点でも取れば、どう息を吹き返してくるかわからない。デサイーの退場は、不穏な空気をスタジアムに呼び込んだ。

 しかし、ジャッケは慌てなかった。ビエイラを投入して守りを厚くし、エジムンドを加えて3トップ気味に攻めてくるブラジルの波状攻撃に対抗した。細かい指示は、すべてボランチのデシャンによってなされた。指揮官のジャッケは「キャトルズ・ジュイエ」の2日前に、もうひとつの「革命」を成功に導こうとしていた。

 しかし、リベルテとエガリテのふたつでは「革命」は成就されない。民衆が最後に欲したフラテルニテ(博愛)はブラジル人によってもたらされた。

 終了間際、負傷したリザラズを気遣い、GKのバルテズがボールを外に投げ出した。だがブラジルはそのボールをフランスに戻さず、明らかに博愛、友愛の精神を踏みにじった。
 ついに民衆の怒りは頂点に達し、憎悪を剥き出しにしたブーイングがスタジアムを包んだ。弱々しげな王国が、打倒の対象として再び甦ったのだ。これはスタジアムばかりか、そこから数キロ離れたシャンゼリゼ大通りを埋め尽くした民衆にとっても、むしろ歓迎すべきことだった。

 その数分後、フリーでボールを持ったプティが80メートル近く独走し、3点目を決めた。頂点に達していた民衆の怒りは、その瞬間、歓喜へとかたちをかえ、ついに「革命」は達成された。緑の芝の上で、闘士たちの喜びが爆発した。トロフィーに交互に口づけを交わし、凱旋のようなビクトリー・ランを大観衆の目の前で披露した。

 スタンドでは大会組織委員長のプラティニがスーツの下に着込んでいたユニホームを誇らしげに指差し、その隣ではシラク大統領がピレスから手渡された背番号23のユニホームを携えて巨体を躍らせた。

 締めくくりは、クィーンの「We are the champion」。これが輪唱のようになって、スタジアムを駆け巡った。きっと世界中の歓喜をかき集めても、パリの日曜日の夜の祝祭を目の当たりにしては、小さな微笑み程度のものだと言わざるをえなかったに違いない。

 人波におぼれかけながらスタジアムを後にする。頭上で爆竹が破裂し、足元には空になったワインのボトルがゴロゴロ転がる。地下鉄は危険を避けるためシャンゼリゼ付近の駅をパスし、「フランス勝利」のアナウンスが流れるたび、列車は激しく上下に揺れた。
 シャンゼリゼに出ると、ボコボコにされた車が悲鳴のようなクラクションを鳴らしながら立ち往生していた。トリコロールをまとったいくつもの背中がジグザグに暴走し、発煙筒の爆音が耳をつんざいた。

 この夜、シャンゼリゼは“パリ解放”以来の150万人の人波であふれかえった。乗用車が群衆に突っ込み、重体11人を含む80人がケガをするという不幸な出来事もあったが、それもこの夜ばかりは小さなニュースに過ぎなかった。

 我々、フランス人の心は、常に3つの色(希望)で満たされている――との『ル・モンド』の予言は当たった。もしかして、私が「キャトルズ・ジュイエ」の2日前、すなわち「歴史上たったひとつの日曜日」の夜に目撃したサッカーに名を借りた「革命」は、200年前の再現だったのかもしれない。

(おわり)
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