「あれが僕の人生のピークでしたね」
 近鉄などで活躍した金村義明は、夏の甲子園の優勝に話が及ぶと、冗談めかしてそう言う。


 1981年、金村擁する報徳学園高(兵庫)は初めて夏の甲子園を制した。

 金村はエースで4番、県予選7試合と甲子園6試合、計13試合を、たったひとりで投げ抜いた。

 これだけ酷使されながら肩、ヒジはじめ、どこも痛めなかったというのだから鉄人である。アイシングすらしなかったという。今では信じられない話だ。

 その金村に、近年持ち上がっている球数制限やタイブレーク制の導入について聞くと、次の答えが返ってきた。
「ウ〜ン、親の立場になってみると、時代の流れだから致し方ないと思います。それに高校野球はどんどん進化している。たとえば昔は主力さえ抑えれば、何とかなった。他のバッターは大したことなかった。でも今は、そうはいかない。相手のデータも入ってきて、野球も繊密になってきています」

 正直言って、この答えは意外だった。「僕のようにひとりで投げ抜いてこそ高校野球」と言うのかとばかり思っていた。“甲子園の鉄人”は時代の先を見据えていた。

 一方で、新制度の導入に否定的な意見も存在する。

 甲子園の最大のヒーローは誰か。私見を述べれば“北国のエース”と呼ばれた太田幸司である。

 三沢高(青森)のエースとして69年の甲子園に出場した太田は決勝で松山商高(愛媛)相手に延長18回、再試合を含め、6試合をひとりで投げ抜いた。

 決勝の2日間で27イニング、384球。これだけ投げれば、ピッチングマシンでも故障するのではないか。

 惜しくも準優勝に終わったが、その端正のマスクも相まって“幸ちゃんブーム”はピークに達した。女性誌のグラビアを飾った草分けでもある。元祖・甲子園のアイドルは言う。
「(1人で投げ抜いた経験が)現在の太田幸司をつくった。今の風潮として昔のことは全部ダメという声が多いが、野球を通じて学ぶことは勉強で学ぶことよりも遥かに大きかった。ただ昔と違い監督が選手の健康を考える時代になってきている。色んなルールを決めてもいいと思うが、全て横一線に引くのはおかしい」

 今夏で甲子園は100周年を迎える。変えるべきものと変えてはいけないものがある。その見極めが難しい。

<この原稿は2015年8月21・28日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものです>


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