「これ何だと思いますか?」
 昨年末のことだ。プロボクサー八重樫東選手に向かって、僕は得意の虫の話題に入った。

 僕が、手にしていたのは、なんと5ミリほどの小さなクワガタだ。八重樫選手は、その極少のクワガタに驚きを隠せないでいた。
「これはマダラクワガタと言って日本最小のクワガタなのですよ。クワガタ界の……」

 僕は、咄嗟にこの後の言葉を飲み込んだ。「クワガタ界のミニマム級ですよ」と言おうとしたからだ。八重樫選手が、あの井岡一翔選手と争ったWBC・WBA世界ミニマム級王座統一戦を思い出すのを懸念し、口をつぐんだのである。この時点で統一戦からは既に半年が経っていたが、やはり本人を前にすると気をつかってしまう。

 この日、八重樫選手ならびに大橋ボクシングジムの面々は、サンタの格好に身を包んで神奈川県の児童養護施設を訪れ、子どもたちと餅つき大会を楽しんだ。
「貴重な休みをボランティア活動に費やして、ホント偉いですよ」
 帰り道、八重樫選手と2人だけで電車を待っている時、僕はそう声をかけた。

 八重樫選手はかなり疲労困憊しているように僕の目には映った。ボクシングの練習以上に筋力トレーニングに力を入れていたからだろう。服の上からでも筋肉が肥大化しているのがわかるほどだったのが、何よりの証拠である。土居進トレーナーと取り組んだフィジカル強化の成果は確実に出始めていたのだ。

 井岡選手が、ミニマム級からひとつ階級を上げたのに対して、八重樫選手は、飛び級でフライ級に挑戦しようとしていた。この階級のWBCチャンピオンは、五十嵐俊幸選手。学生時代の対戦成績は、4戦4敗と八重樫選手がアマチュアでは1度も勝てなかった相手だ。

 普通なら、そのような苦手は避けたいのが心情だろう。しかし、八重樫選手は並みの選手とは違う。松本好二トレーナーも呆れるほどの負けん気の塊なのである。「やられたらやり返す」の信念のもと、アマ時代のリベンジを果たすべく、五十嵐選手との対戦を決意したのだった。

 とはいえ、相手とは身長で6センチ、リーチではなんと9センチもの差がある。戦績だけでなく体格でも勝っているチャンピオンの牙城を崩すのは厳しいものと思われた。そう感じたのは、僕自身もリーチ差で苦しんだ経験があるからだ。

 20歳の頃、ビル・ロビンソン氏のもと、テネシー州ナッシュビルへ武者修行に行った時のことだ。間借りしていた練習場所がボクシングジムだったこともあり、レスリングだけでなくボクシング特訓も行なった。アメリカは、日本と違って体の大きなボクサーが多く、スパーリングの相手に困ることはなかった。

 その中に、キース・マックナイトという選手がいた。彼は188センチの長身の白人ボクサーで、州のチャンピオンだった。身長は8センチほど彼が高く、リーチも長かったものの、体重は僕の方が体重では勝っている。いくら州王者とはいえ、それほど打ち負けるとは考えなかった。

 それに僕はスピードにも自信があった。マイクタイソンよろしくダイナマイトパンチで、良いところを見せてやろうと意気揚々とスパーリングを決行したのだった。

 ところが……。こちらのジャブはかすりもしない。一方で向こうのジャブは気持ちいいほど僕の顔にクリーンヒットした。予想以上に相手の懐に入るのは難しく、嫌というほどリーチの差を体感することとなったのである。

 ふと、20年前の苦い経験を思い出した僕は、八重樫選手のハンディがとても気になったのだ。
「コクワ仮面(八重樫選手)、大丈夫かな?」
 僕の不安げな顔を見た小学生の息子も心配していた。

 4月8日、運命のゴングが、両国国技館に鳴り響いた。八重樫選手は、1Rから五十嵐選手の様子をうかがうことなく、果敢に相手へ突っ込んで行った。
「なるほど~、この作戦かぁ~」

 彼は、必ずといって良いほど相手と至近距離に身を置いて闘う。こうすれば、リーチ差など全く関係ない。
「ここまでしつこいと相手も嫌だろうなぁ」
 2階級も上げたことを全く感じさせないスピードで、相手に忍び寄り、距離を詰めた。

 ただ、近い距離で闘う時間が長いため、お互いバッティングに苦しみ、目尻から激しい出血がみられた。僕もキングダム時代、オープンフィンガーのグローブを着用して試合をした時、バッティングで大惨事を起こした経験がある。後輩の山本喧一選手との対戦中、お互いに接近して殴り合おうとした瞬間、距離が近すぎて頭を激しくぶつけ合ってしまったのだ。彼の石頭で脳震盪を起こした僕は、開始わずか数十秒で10カウントを聞いた。

 こんなことを思い出しながら見ているうちに、試合はあっという間に最終ラウンドへ。八重樫選手は脅威のスタミナで最後まで五十嵐選手を圧倒し、3-0の大差での判定で、飛び級での2階級制覇に成功したのだ。ベルトを奪取したこと以上に、苦手を完全に克服した八重樫選手のメンタル面には脱帽した。

 彼の奮闘ぶりを目にして、僕にとって克服すべき過去は何だろうと考えた。やはり、前回にも書いた「UWF戦士のバンザイ企画」が、脳裏をよぎってしまう。苦手な先輩にも果敢にチャレンジしよう。その勇気を八重樫選手からもらった気がしている。

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