「このオーディションを受けてみたい」
 つい先日、17歳の娘が、こんな話を僕にしてきた。それは、今、流行りのAKBのような類のアイドルオーディションだった。

 あまり表に出るのを好まない娘の心境の変化に、父親として少々面食らった。大学受験が控える大事な時期に入るだけに心配でもある。

 普通の親なら、ここで「ノー」を突きつけるだろう。だが、僕は自分の17歳の頃を振り返ると頭ごなしに否定などできなかった。

 さかのぼること24年前の1989年6月、17歳になったばかりの僕は、大きな希望を胸に愛媛から上京し、UWFの合宿所へ入寮した。
「ここからがスタートだ!」
 UWFの第一歩をついに踏み出すことに胸の高鳴りが止まらなかった。

 道場では、同期となる長井満也さん、冨宅飛駈さんの姿もあり、挨拶を交わした。2人とも僕より4つも年上だったこともあり、体はしっかりとできあがっていた。

 実は、この他にも2人の入門者がいたが、すぐに夜逃げしていなくなってしまった。同じ部屋で一緒に寝ていたはずなのだが、朝起きたら荷物ごとなくなっていたのだ。当時、若者に爆発的に人気のあったUWFへの入門者は絶えなかったが、いざ入門すると、1週間と続く者はおらず、後輩ができないのが辛かった。

 結局、残った新人は僕たち3人だけとなった。それだけに僕たち3人は、同期生というよりも戦友といった方がしっくりくる。

 厳密にはUWFでデビューできたのは、冨宅さんと僕だけだった。シュートボクシングのプロ選手から鳴り物入りで入門した長井さんは、練習中のスパーリングで、首の骨を折る重傷を負い、リタイアしたままUWFは解散となってしまったのである。

 3人の中で、実績だけでなく186センチ、90キロと体格でも勝っていた長井さんが、大怪我をするなどとは思いも寄らなかった。冨宅さんと飯田橋にある病院へお見舞いに行くと、そこでは信じられない光景を目の当たりにすることとなった。

「もう、こんなカラダになってしまっては、戻るのは無理だよ……」
 そうつぶやいた長井さんの姿に、僕らは言葉が出なかった。

 なんと頭蓋骨に穴を開けてビスで留め、滑車に重りを付けて首を引っ張った状態で、彼はベッドに横たわっていた。もちろん首は動かせないため、手鏡で僕たちと目を合わせながら会話したのだった。

 目を覆いたくなるような様子に、僕たちは言いようのない恐怖感に襲われた。その痛々しい姿は、決して他人事などとは思えなかったからだ。
「明日は我が身だ」
 帰りの電車で冨宅さんと落ち込みながらこんな話をしたのを、今もはっきりと覚えている。

 同部屋で兄貴のような存在だった長井さんの長期入院は、僕の心に暗い影を落とした。ちなみに僕たちが入る前の2期生は2人いたが、ひとりは練習中の事故で亡くなり、もうひとりは脳挫傷で運動のできない体となり、辞めていった。UWFで生き残るのは、大袈裟ではなく、文字どおりの命懸けだったのである。

 そんな過酷な状況をくぐり抜け、横浜アリーナという大舞台でデビューできたのは奇跡としか言いようがない。すべての団体を含めて、こんな大会場でデビューできた新人は皆無に等しいだろう。

 あの地獄のような日々を耐え抜いたご褒美にも思え、身に余る待遇に興奮が収まらなかった。僕たちのデビューの日に、いみじくも退院した長井さんは、その足で会場に向かい、客席から僕たちの試合を見たという。

 このことは、ずっと後になって雑誌で知ることになった。当時は自分のことで精一杯で、大切な同期の思いまで目を向ける余裕がなかったのだ。

 今考えると、自分が同じ立場であったなら、どんなに悔しかったか……。想像するだけでもつらい。しかも大物ルーキーだった彼は、憧れのUWFのマットに1度も上がれなかったのだから、怪我をどれほど恨んだことだろう。

 そんな長井さんが、20数年の時を経て、念願のUの名のつく、リングに上がった。前回も紹介した、先月の『U-SPIRITS again』(後楽園ホール)である。

 驚いたことに当日の彼はUWFのジャージを着ていた。あれから20年あまりの長い年月、捨てずにしっかり持っていたことに彼のUへの想いが痛いほど伝わってきた。

 僕は、同期対決である『長井vs冨宅戦』のレフェリーを担当したのだが、何とも言えないノスタルジックな気分に包まれていた。2人の闘いは、試合というより、道場でのスパーリングそのものだった。

 あの世田谷にあったUWFの道場にタイムスリップしたような不思議な感覚に襲われ、僕は不覚にも涙が出そうになった。3人で、厳しい稽古や雑用、ちゃんこ番をやっていた練習生時代が鮮明によみがえってきたからだ。

 観客は、水をうったように静かに2人の攻防を見入っていた。これもまた新生UWFの光景だった。プロレスと総合格闘技の橋渡しをした革命的団体であるUWF。地味なグラウンドの攻防をファンが全く理解できなかった時代、Uは「本物の闘い」をプロレス界へ投げかけたのだ。

 試合後、控え室で長井さんは、冨宅さんと僕にこんな提案をした。
「この3人で、いつかシックスメンタッグを組んで試合をやろうよ。これが夢だな」
 彼のUへの想いを聞いているうち、僕の中に眠っていたUスピリッツも騒ぎ出した。

 それは、選手として再びリングに上がるというものではない。新生UWFの全メンバーをもう1度、ひとつのリングに集めることである。実は団体が崩壊寸前だった1990年12月の長野・松本大会で、全選手がリング上に揃い、一枚岩をアピールするバンザイをした。しかし、その後、すぐに選手はバラバラになってしまった。

 前田日明さん、高田延彦さん、山崎一夫さん、宮戸優光さん、安生洋二さん、中野龍雄さん、田村潔司さん、そして僕たち3人……。引退した先輩も多く、もう試合は難しいが、せめてリング上でのバンザイだけでも、UWF信者と呼ばれたかつてのファンに見せてあげたい。

 違いしたまま永遠にUWF戦士が歴史の中に埋もれてしまうのは、あまりにも淋しすぎる。全員が揃うなんて夢物語かもしれない。だが、誰かがこれをやらなければいけない気がする。

 夢を抱いた17歳の娘に触発され、僕は青春時代にすべてをかけたUの破片をひとつにすべく立ち上がるつもりだ。

(毎月10、25日に更新します)
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