「インタビューをお願いできますでしょうか?」

 週刊プロレスの記者からの電話であった。はて、僕に何のインタビューかと思いきや、Uインター特集を企画しているとのことだった。そのため、団体の立ち上げから振り返ってもらいたいという。

 設立は1991年だから20年以上も前から遡らなくてはならない。
「もう昔のことで忘れちゃいましたよ。ハハハッ」
 正直、あまり乗り気ではなかった。良い思い出ばかりではないからだ。

「話しているうちにきっと思い出しますよ」
 記者の方に押し切られる形で、後日インタビューは行なわれたのだった。はじめにUWFが分裂した後、何故Uインターを選んだのかという質問をされたのだが、これだけで時間がなくなってしまう危険があるので、この話題はさらりと一言だけでくぐり抜けた。

 今回のコラムでは、そのことにも少し触れさせていただくが、あの時の選択は本当に難しかった。まだデビュー4戦しかしていないグリーンボーイが、どちらかの団体を選べと言われてもそう簡単にできるものではない。どちらにもお世話になった先輩がいるからだ。

 それにシゴかれていた先輩からラブコールを受けるという信じられない状況に戸惑いもあった。もちろん、戦力として引き抜かれるというレベルではなかったものの、新しく団体を作るわけだから双方ともひとりでも駒は欲しい。

 たとえとしては大袈裟だが、プロ野球のドラフト会議で複数の球団から1位指名を受けたような、それぐらいの気持ちになっていた。ファンの頃から見ていた船木誠勝選手や高田延彦選手から直々に声を掛けてもらえたのだから、そうなって当然である。

 ただし、2つの団体の条件面は、恐ろしいほど大きな開きがあった。ひとつはスポンサーにメガネスーパーがついているため、お金の心配がいらない『プロフェッショナルレスリング藤原組』。そして、もうひとつの方は、全く何もない貧乏団体である『UWFインターナショナル』。

 僕は後者を選んだのだが、その理由は今、振り返ってみても明確なものが出てこない。強いて言えば団体の理念に共鳴したのかもしれない。いや、当時18歳の自分がそこまで考えていたとは到底思えないが、後にUインターの頭脳とまで言われた宮戸優光さんと話し合った時に胸に響くものがあったことだけはハッキリと覚えている。

 新団体として動き出すためには、まず事務所が必要である。僕も不動産屋回りを先輩の田村潔司選手とともに行なった。そして、東京・狛江市にある格安物件を見つけ出し、それが事務所に決まったのだった。

 団体の事務所探しなんて、選手がそう経験できることではないだろう。余談だが、僕が引退後に立ち上げたイベント会社『カッキー企画』もスタート時の事務所は同じ狛江市だった。初心に立ち返りたくて、この地を選んだのである。

 話を戻すが、事務所を自分で見つけたことにより団体への思い入れはますます強くなった。一番下っ端である自分が役に立てたことに底知れぬ喜びを感じたのだった。デビューはしていたものの、雑用などもあって新弟子気分は抜けきれていなかったが、この一件で自分も団体を背負う戦力のひとりだと強く意識できるようになったのである。

 もうひとつの団体を選んだ同期の冨宅飛駈選手は、金銭的にも余裕があり、練習だけに打ち込める抜群の環境に身を置いていた。その意味ではスタート時の練習量は格段の差があった。
「これじゃあ力の差がどんどん開いていくよ……」

 旗揚げ戦も向こうの方が早く、僕は置いていかれるのではという危機感を募らせていた。普通の同期であれば同じ団体で切磋琢磨していくものだが、僕たちはすぐに別々の団体へと離れてしまっただけに意識しすぎて焦ってばかりいたように思う。

 それに同期の彼は団体のオーナーから真っ赤なスポーツカーを与えられ、いち早くひとり暮らしまでしていたから、私生活でも随分と差をつけられていた。誤解のないよう説明するが、彼のことを決して批判しているわけでは毛頭ない。プロである以上、それは決して悪いことではないからだ。

 だから僕は、彼に対して決してマイナス的なジェラシーを抱くことはなかった。ただ、今になって思えば、お互いもっともっと下積みが長かったほうが良かったとも思う。

 実はこのインタビューをしている最中、偶然にも真壁刀義選手に遭遇したので、そんなことを感じてしまったのだ。真壁選手の場合、新日本プロレスの選手層が厚く、そう簡単にはチャンスは巡ってこなかった。現在の真壁選手はトップ選手として大輪の花を咲かせているが、冷や飯を食わされていた不遇の時代が恐ろしく長かったのである。

 それに同期にはPRIDEなど総合格闘技で大活躍した、あの藤田和之選手がいた。真壁選手は、きっと気の遠くなる時間、自分を卑下し続けていたに違いない。そんな状況から見事にてっぺんにたどり着いたのだから、多くのファンが彼の魅力に惚れ込むのも頷ける。

 何よりもプロレスファンは、そういった背景に流れるストーリーを好むのである。

 ところで、この11月19日、プロレス学校の生徒だった小松洋平君が、新日本プロレスの『SHIBUYA-AX』大会でデビューすることが正式に決まった。僕もプロレス学校に関わっていたひとりとして、デビュー戦の知らせを心待ちにしていただけにうれしい。

 彼は大学在学中に1度、新日本プロレスのテストを受けて合格していたのだが、卒業までもう1年残っていたため、入門を見送った過去を持つ。そして、卒業直前に再びテストを受けたものの、今度は残念ながら落ちてしまったのである。そのため親から50万円を借りてプロレス学校に入り、半年もの間、浪人生活を送ったのだった。

 そんな彼には、プロレス学校での同志が一人だけいる(他の者は脱落)。その同期は現在、全日本プロレスの練習生としてデビューを目指し、頑張っているのだ。この先、2人がどんなライバルストーリーを見せてくれるのか、今から楽しみである。

(毎月10、25日に更新します)
◎バックナンバーはこちらから