千葉ロッテの日本一で幕を閉じた今シーズンのプロ野球。今年はセ・パ両リーグとも最後の最後まで首位争い、クライマックスシリーズ進出争いが熾烈だった。セ・リーグで夏場以降、台風の目になったのが東京ヤクルトだ。借金19でダントツ最下位だった5月終了時からミルミル巻き返し、8月中旬には勝率5割に到達。中日、阪神、巨人の上位3強を猛追した。その立役者が5月から監督代行に就任した小川淳司である。ヘッドコーチ時代はヤクルトファンくらいしか、その名前を知らなかったような“目立たない指揮官”は、どのように瀕死の燕を救ったのか。その人となりも含めて、二宮清純が取材した。
(写真:「大学の時は江川(卓)さんに間違えられました」と笑う小川監督)
「名刺を持ち合わせておりませんので申し訳ありません」
 神宮球場脇にあるクラブハウス。大柄の男はそう言って腰を2つに折り、深々と頭を下げた。
 長いこと、この世界の住人たちを取材しているが、ユニホーム組から名刺を所持していないことを詫びられたのは初めてだ。もう、それだけで実直で素朴な人柄がうかがえる。

 小川淳司、53歳。
 ユニホームを着ていなければ、彼が今季、プロ野球12球団で最高の勝率を記録した指揮官だと言っても、誰も信じないだろう。地味ではあるが、腕の立つ男なのだ。
 ちなみに今季の勝率ベスト3はこうだ。
 1位・小川淳司(東京ヤクルト)、6割2分1厘。
 2位・落合博満(中日)、5割6分。
 3位・真弓明信(阪神)、5割5分3厘。

 監督代行就任時には19もあった借金を完済し、4つの貯金を積み上げた。絵に描いたようなV字回復を主導した。
「優勝に匹敵する成績。選手の力を更に引き出し、結果に感謝している」とは堀澄也オーナー。これぞ灯台下暗し。身近なところに救世主はいたのだ。

 満を持して表舞台に登場したわけではない。この5月、泥縄式に指揮官のおハチが回ってきた。
 成績不振の責任をとって監督の高田繁が休養、球団からの指名はそれこそ青天の霹靂だった。
「5月26日のゲーム(東北楽天戦)が終わった後、鈴木正社長に呼ばれました。“高田が休養することになったので、明日から指揮を執ってくれ”と。僕の気持ちは複雑でした。不振の責任の一端はヘッドコーチの僕にもある。高田さんの考えをチームに浸透させることができなかったわけですから。
 その旨を話したら、“そんなことを言っている場合じゃないだろう。明日もゲームはある。誰かが指揮を執らなきゃならないんだ”と一喝されました。球団からそう言われれば、雇われの身である僕はそうするしかなかった」

 この世界、選手や指導者としての実績は凡庸でも、スキあらばと指揮官の座を狙っている野心家は少なくない。
 大臣でも総理を含め、そのイスは18席用意されているが、プロ野球(NPB)の“王座”は12しかない。いくらチームの状態が芳しくないとはいえ、思いがけず巡ってきたチャンスに小躍りするのが普通である。

 ところが、小川は違った。
「やれることから始めよう」
 腹をくくってからは気負いも自負もなかった。
「選手に向かって、結果を出せとか借金を減らせとか言うつもりは全然なかった。危機感は皆が持っていた。ただ、それがひとつになっていなかった」
 監督代行として指揮を執ることになった5月27日、クラブハウスにチーム全員を集めた。
 その場で発したのが、次のセリフだ。
「とにかく皆、同じ方向を向いていこう」
 生え抜きコーチゆえにチーム事情は熟知していた。地味ではあるが、非力ではない。小川の行動は素早かった。

 まずチームの顔である青木宣親を3番から本来の1番に戻した。そこには小川なりの周到な計算があった。
「青木のバッティングに対する集中力は凄まじいものがあります。その代わり、守備や走塁にはあまり興味を示さない。同じリーダー格でもチーム全体のことを考えてプレーする宮本慎也とはそこが違っています。
 では、どうすればチームを引っ張ってくれるのか。彼は数字にこだわるタイプなので、それに集中させようと。その姿を見た若い選手が“青木さんがあれだけ頑張っているんだから、自分たちもやらなきゃ”と思ってくれれば、チームもいい方向に行くだろうと考えたんです」

 これが図に当たった。元の居場所に戻った青木はヒットを量産し、自己最高の209安打、打率3割5分8厘を記録した。
 その青木は語っている。「小川さんは尊敬できる人。熱くて一生懸命な反面、冷静に物を見るところもある」
 小川と青木の付き合いは深い。青木が入団した時の2軍監督が小川なのだ。
「彼はプライドが高そうでした。不服な思いがあると、それがすぐ顔に表れる。ルーキーの年、オープン戦で結果が出ず、2軍に落ちてきた。(2軍の球場がある)戸田での最初のフリーバッティングはポコポコポコポコ、内野フライばかり打ちあげていた。
 だから彼に言ったんです。“いくら六大学で実績があっても、最初から我慢して使う気にはなれないと思うよ。まず、自分の持ち味は何だよ?”って。そしたら、“逆方向へライナーを打てることです”と返してきた。だったら、練習でもそれを見せてくれないと使う側としては使えない。野球は個人競技じゃないんだと。そのことを伝えると黙って聞いていましたね」

 上司だからといって、頭ごなしに命令しない。相手が納得していない時には、懇切丁寧に説明する。厳しい指摘をした際にはフォローを忘れない。
 34歳のベテラン福地寿樹の扱いを見れば、そのことがよくわかる。
 高田がバトンを引き継いだ時、チーム状態はどん底だった。アーロン・ガイエル、ジェイミー・デントナの両外国人がスランプに喘ぎ、得点力が低下していた。
 球団は新助っ人のジョシュ・ホワイトセルを獲得したものの、まだ長距離砲が一枚足りない。ひとりを入れると、ひとりが玉突きのように弾き出される。それが競争社会の掟とはいえ、弾き出された者には恨みにも似た思いが残る。そして、その恨みは瞬く間に伝染し、チームに多数の不満分子を生む。
 組織が崩壊するのは、こういう時だ。腐ったみかんひとつで箱の中は全滅する。ならば腐ったみかんを出さないよう予防しなければならない。

 ここでも小川は先手を打った。福地を呼び出し、静かにこう告げた。
「チーム事情とはいえ、本当に申し訳ない。今日からベンチで頼むわ」
 笑顔でベテランは返した。
「大丈夫ですよ、小川さん。僕はやることはやりますから」
 08、09年と2年連続で盗塁王に輝いている福地は前任の高田好みの選手だった。広島で芽が出ず、西武を経てヤクルトに来てから開花した苦労人だ。レギュラーを掴むまでの陰の努力は誰もが知っている。

 しかし現状、このチームに欠けているのはパワーヒッターである。小川は泣いて馬謖を斬った。代わりに起用したのは数少ない和製大砲の畠山和洋だった。
 長打力は申し分ない。だが畠山には、そう簡単には是正できない欠点があった。守備力である。100キロの巨体を揺らしながら打球を追う姿は、危なっかしくて見ていられない。ましてや本職の内野ではなく、福地のいたレフトを守るのだ。

 それでも小川は2軍監督時代の教え子に賭けた。リスクを取らないと先へ進めない。そう考えたからである。
「彼は僕の期待によく応えてくれました。守備がお粗末な分、打撃で貢献してくれた。弱いチームが皆が特長を発揮し、ベンチを含めた全員で戦わなければならないんです」
 打率3割、14本塁打、57打点。畠山はプロ10年目でキャリアハイをマークした。チャンスを与えれば、人は変わるのである。

 こうした采配を高田はどう見ていたのか。
「いくら状態がよくても、僕は畠山を外野では使わないね。ファーストならともかくレフトには……。まぁ、巨人の(アレックス・)ラミレスくらい打ってくれれば別だけど。でも、あれでチームがガラッと変わったんだからね。小川君は本当によくやったと思うな」

(後編につづく)

<この原稿は2010年11月15日号『週刊現代』に掲載されたものです>