秋の競馬シーズンが到来した。10月4日のスプリンターズステークスを皮切りに年末の有馬記念まで約3カ月間、G1タイトルを争う熾烈なレースがターフで繰り広げられる。かつてG1レースを7度制したディープインパクトは、圧倒的な強さで日本中に衝撃をもたらした。7冠馬・ディープインパクトら競馬史に残る名馬を育て上げたのが池江泰郎である。池江は騎手、調教師を経て、現在は馬主として新たな目標に向かって挑戦している。競馬界を知り尽くした名伯楽に、“兄弟子”である浅見国一さんとの秘話を二宮清純が訊いた。

 

二宮: 池江さんは、騎手時代に大阪杯や京都記念など重賞で17勝を挙げました。引退後は調教師として、数々のサラブレッドたちを手掛けられ、現在は馬主として活躍されています。
池江: 騎手、調教師、馬主と辿って来たのは浅見さんが1人目で、僕が2人目です。浅見さんは2年前にお亡くなりになられたので、現在は僕だけになりますね。浅見さんは、騎手時代から僕の“兄弟子”でした。

 

二宮: 兄弟子との思い出はありますか?
池江: 10代の時、一緒のレースに出たことがあるんです。レース中に浅見さんが僕の方をちらっと見て、「まだ仕掛けは早い。じっとしておけ」と言ってきたので、「はい」と返事をしました。でも、自分的には手応えがよかったので、少し前に出て行ったんです。すると再びこっちを見てきて、「まだ早い。追うな」と横からすかさず注意してきました。言われた通りにしていると、そのレースを勝つことができたんです。浅見さんとの懐かしい思い出ですね。

 

二宮: レース中も他の騎手の声は聞こえるんですね。
池江: 少しなら会話できますよ。“危ないぞ”“ここだぞ”とかは隣で言います。しかし、今は騎手同士が馬に乗っている時に話してしまうと違反行為になってしまいますね。

 

二宮: その後、浅見国一厩舎に移籍したことで、調教師と騎手という新たな“師弟関係”が結ばれました。
池江: 当時、ケイキロクやヤマピットなどオークスを制した馬がいました。僕はヤマピットの主戦騎手として数々のレースに出走しました。思い出すのは、67年の桜花賞です。ヤマピットは桜花賞の大本命とされていたのにもかかわらず、結果は12着でした。その時は、責任感に駆られて騎手を辞めようかと思いましたよ。

 

二宮: 11年に定年で調教師を引退しました。そこから馬主になったきっかけは?
池江: 僕は浅見さんのことを凄く尊敬していました。調教師を引退後に馬主になられた浅見さんの姿を見て、“よし。僕も挑戦しよう”と思ったんです。

 

二宮: 馬主登録の審査はすごく厳しいとお聞きします。
池江: 実は調教師を引退後、すぐに馬主になろうと思っていましたが、そう簡単にはいきませんでした。馬主の申請をしたあとに、馬を育てられるかどうかの審査があります。財政審査や人格審査などを通過するまでに最低でも2年はかかります。僕の場合は、騎手と調教師の経歴がありましたから、人格審査は大丈夫でした。あとは馬を飼育できるだけの経済力がないといけませんでした。そこは馬一筋でやってきましたから、何とかクリアできましたよ(笑)。

 

二宮: 13年に晴れて馬主になりました。馬主になられての苦労はありますか?
池江: 今は息子のところの厩舎で2、3頭飼育しています。馬の餌となる飼葉が結構高いんです。1頭にかかる食費は、最低でも60万円はかかります。なので、人間の食事よりもずっと高いです。食費以外にも、病気になれば治療費がかかります。馬を飼育する費用は相当掛かるので、大変ですね。

 

二宮: これまで騎手、調教師として輝かしい成績を積み上げてこられました。今後の目標をお聞かせください。
池江: 馬主としてG1で1勝でも2勝でもあげることができれば、それでもう満足です。

 

<現在発売中の『第三文明』2015年11月号でも、池江泰郎さんのインタビューが掲載されています。こちらもぜひご覧ください>