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(写真:「ラグビーは僕自身を作ってくれたもの。今の考え方のすべてを教えてもらった」と語る廣瀬)

 1日、東芝ブレイブルーパスは府中事業所で、SO/WTB廣瀬俊朗の引退記者会見を開いた。昨年のイングランドW杯日本代表の廣瀬は34歳。「体力的にはまだまだやりたいですが、次のステップに行こうと思った」と決断理由を明かした。自ら幕を引いた30年の競技生活を廣瀬は「仲間やコーチ、スタッフに恵まれて最高のラグビー人生を送ることができて感謝しています」と振り返った。

 

 W杯でのキャップ数はゼロ。1人のラガーマンが、ユニホームを脱いだ。男の名は廣瀬俊朗――。東芝、そしてジャパンの精神的支柱である。

 

 5歳から競技を始めて、30年の月日が経った。廣瀬は根っからのリーダーである。北野高時代に花園経験はないものの、高校日本代表のキャプテンを務めた。慶應義塾大学、東芝でも主将を任せられると、2012年には代表キャップ数わずか1ながらキャプテンに就いた。当時、廣瀬を大抜擢したのが、ヘッドコーチ(HC)のエディー・ジョーンズ(現イングランド代表HC)だ。

 

 ジャパンのキャプテン就任以降は15年W杯をターゲットにやってきた。エディーに買われたリーダーシップを発揮し、先頭を走ってチームを引っ張った。「苦しかったことはない。光栄なことで、仲間に恵まれた最高の2年だった」と振り返る。チームとしても、13年に強豪ウェールズ代表を破る金星を挙げるなど成果は上々だった。

 

 しかし、14年からはキャプテンの座はFLリーチ・マイケル(東芝)に譲った。「居場所がなくなった時の方がつらかった」と廣瀬。病気やケガにも見舞われた。それでも廣瀬は腐ることはなかったという。「仲間のため、ラグビーのために」と、ひた向きに努力した。

 

 15年のW杯で、ジャパンは優勝候補の南アフリカを撃破し、サモアと米国にも白星を重ねた。決勝トーナメントには届かなかったものの、過去最多の3勝を挙げた。新たな歴史を作ったと言っていいだろう。しかし、廣瀬はHO湯原祐希(東芝)とともに一度もピッチに立つことはできなかった。

 

 出場メンバーから漏れても悔しさを押し殺し、チームのために尽くした。「もちろん悔しい思いもありました。でも自分たちには大義があった。そのためにはやれることは試合に出ても出ていなくても、必ずある。それを全うしただけのことです」。廣瀬が口にする「大義」とは“日本ラグビーを変えたい”“憧れの存在にしたい”という想いである。

 

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(写真:身長は173センチとラガーマンとしては小柄だが、「自分がコントロールできること、考えることを大事にしてきた」とハンデとは感じなかった)

 イングランドから帰国すると、ラグビー界の状況は一変した。世間の注目度は格段に上がり、メディアにも取り上げられる回数も増えた。トップリーグにも多くの観客を集めるようになった。廣瀬は“日本のラグビーを変えたい”という願いが成就したことで引退を決意した。「ラグビー選手として、そういう状況をつくりたいと思っていることが成し遂げられた。こうなると人生は1回きり。次に向かいたいなと思いました」

 

 今後の進路は未定だという。東芝ラグビー部の三浦修部長は「当ラグビー部としては将来の指導者候補として考えておりますが、有能な人材のため、その育成方法や進路については会社と慎重に検討、調整をしています」とコメントを寄せた。ユニホームを脱いでなお、廣瀬のリーダーシップは必要とされている。現在は選手会発足に向けても尽力している。廣瀬は「自分にしかできない道」を走り続ける。

 

(文・写真/杉浦泰介)