第739回 ジーコの言葉を胸に輝け“手倉森ファミリー”
自身の銅像があるサッカー選手は、日本ではジーコくらいのものだろう。後に日本代表監督まで務めるジーコがブラジルからこの国にやってきたのは1991年5月のことである。Jリーグがスタートする2年前だ。
ジーコが極東のサッカー後進国にやってくるだけでなく、38歳でカムバックを果たすと聞いて驚かない者はいなかった。しかも所属先はJSL2部(当時)の住友金属工業蹴球団である。
だが、ジーコには明確な目的があった。住金はチームのプロ化を機にホームタウンである茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)との結び付きを深めたいと考えており、スポーツ庁長官時代のジーコの活動に興味を示していた。加えてピッチ上でのリーダーシップ。<私は選手たちに技術や戦術だけではなくプロとは何なのかを教えるため、時には日常生活やサポーターへの接し方まで細かく指導した>(自著『ジーコ自伝』)
その中のひとりがリオデジャネイロ五輪出場を決めたU-23日本代表監督・手倉森誠である。ジーコが来日した91年5月と言えば、手倉森が住金に入団して6年目にあたる。この時、ジーコ38歳、手倉森23歳。
「ちょうど僕はブラジル留学から帰ったばかり。(チームで)一番ジーコとしゃべった人間ですよ」。手倉森の任務はジーコの車番。ジーコの車を運転して試合会場に行き、カギを渡した。こうした触れ合いを通じて“神様”からはいろいろなことを教わった。「一番大切なのはコンディショニングだ、と。寝るタイミング、食事をとるタイミング。ただ当時は“何言ってんだよ”と反発もしました」
ジーコがハットトリックを決めた鹿島のJリーグ開幕戦を手倉森はテレビで見た。「プロ化されてもサッカーが盛り上がるわけがない」と高をくくっていた手倉森にとって、これは誤算だった。鹿島の地を去ったことを後悔した。「オレって何てバカなことをしたんだろう。もっとジーコの言うことを聞いて、真面目にサッカーに取り組んでいれば…」
ジーコの教えがいかされるのは、むしろ指導者になってからだ。「オレたちはファミリーだ」。手倉森が選手やスタッフに向けて口にするこの言葉はジーコの常套句だった。「残念ながら僕は鹿島ではファミリーの一員になれなかった」。U-23を称して“谷間の世代”と呼ぶ。手倉森もまた、谷間に落ちた時期がある。そこから這い上がって、やっとここまできた。だが、まだ光溢れる場所にはたどりついていない。指揮官も、選手たちも。
<この原稿は16年4月13日付『スポーツニッポン』に掲載されています>