北四国大会で勝つことは甲子園で勝つことより難しい――。かつて、そう呼ばれた時代があった。

 

 1948年から1975年まで愛媛県と香川県の夏の甲子園出場切符は2県で1枚だった。

 その戦績がすごい。1県1代表の記念大会を除き、北四国の代表校は52勝20敗。勝率7割2分2厘。優勝4回、準優勝3回、ベスト4・5回、ベスト8・3回。どこが出ても優勝候補の一角に名を連ねたものだ。

 

 その北四国を牽引したのが愛媛の松山商と香川の高松商である。四国ではマッショー、タカショーで通っている。甲子園での優勝は松山商が夏5回、春2回。高松商が春2回、夏2回。四国から2校が選出された1925年のセンバツ第2回大会は両校が決勝で相まみえ、3対2で松山商に軍配が上がっている。

 

 伝統を誇る両校だけに、OBも綺羅(きら)、星のごとくだ。野球殿堂入りを果たした者は以下の通り。松山商=藤本定義、森茂雄、景浦將、坪内道典、千葉茂。高松商=宮武三郎、水原茂、牧野茂。両校を中心とする両県の対抗意識をいまに伝えるものに野球拳がある。

 

 ちなみに野球拳といえば、コント55号の「アウト! セーフ! よよいのよい!」を思い出す向きも多かろう。じゃんけんに負けた方が1枚ずつ服を脱いでいくのだ。坂上二郎のお相手はうら若き女性アイドル。PTAからは「俗悪番組」として目の仇にされたが、毎回、高視聴率をはじき出した。コント55号がぶっとばしたのは「裏番組」ではなく、この国の公序良俗だったような気がする。

 

 閑話休題。もちろん、それは本当の野球拳ではない。起源は松山商と高松商のOBが中心となって結成されたクラブチームの対戦後の余興にある。宴席に及んでまでアウト、セーフと“延長戦”をやっていたというのだから、北四国の野球熱の高さが窺えよう。

 

 センバツ第1回大会優勝校の高松商が春夏を通じて55年ぶりに決勝に進出し、紫紺の大旗にあと一歩と迫った。長い雌伏を経て古豪が息を吹き返した。

 

 四国は2040年問題を抱えている。約400万人の人口が300万人に減る見通しだ。雇用を求めて若者は本州へと渡る。「野球王国」の威名も今や昔の話。そんな中、高松商のメンバーは、全員が県内の中学出身者だった。“地産地消”による名門復活に、高校野球の原点を見る思いがした。

 

<この原稿は16年4月6日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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