広島の新井貴浩が26日、NPB史上47人目となる通算2000本安打を達成した。東京ヤクルトの先発・成瀬善久が投じた2球目を力強く振り抜いた。レフト線を破るタイムリーツーベースが記念すべき一打となった。99年にドラフト6位で広島に入団した新井は、年上の金本知憲(現阪神監督)を「アニキ」と慕った。07年オフにFAで阪神移籍を決めたのも、金本と再びプレーをしたいがためのものだった。新井にとって金本は尊敬する先輩であり、越えなければならない壁でもあった。2人の“兄弟関係”を8年前の原稿で振り返ろう。

 

<この原稿は2008年発行の『プロ野球の一流たち』(講談社現代新書)に掲載されたものです>

 

 阪神タイガース金本知憲のニックネームは「アニキ」である。それだけ頼りになる存在だということである。

 

 2008年にカープからFAで阪神に移籍した新井貴浩も、金本のことを「アニキ」と慕う。新井がカープに入団した時、既に金本は押しも押されもせぬカープの主力選手だった。

 

 金本がドラフト4位指名選手なら、新井は6位指名選手である。ともに将来を嘱望されてプロ入りしたわけではない。いわば叩き上げ。鬼気迫る表情で打撃練習に打ち込む金本の姿は、新井にとって良き手本と映ったはずだ。

 

 いつだったか金本の育ての親である元広島監督の山本浩二から、こんな話を聞いたことがある。

「彼はワシが監督4年目のときに東北福祉大から入ってきたんやけど、バッティングはダメ、守備はダメ、足だけはそこそこ。とてもレギュラーになれるような選手じゃなかった。

 

 ところがハートだけは強いのよ。1年目オープン戦に出したら、打てなくても粘ってフォアボールをとってくる。これは使えるぞ、と思って、それから徐々に鍛え上げたんだ。使っているうちに守備も上達し、レギュラーを獲ったんだ」

 

 レギュラーを獲ってからも金本はカープでは“第4の男”に過ぎなかった。攻守のリーダー野村謙二郎、パワーヒッターの江藤智、「天才」の名をほしいままにした前田智徳と比較すると、どうしても影が薄かった。パワーがあるといっても江藤ほどではなく、バッティングセンスがあるといっても前田には及ばなかった。山本が指摘したように、人知れず努力に努力を重ねた。一心不乱にバットを振り込むことで針金のような二の腕をポパイなみにかえた。その甲斐あってベンチプレスでは120キロ、スクワットでは200キロのバーベルをあげられるようになった。

 

 カープに金本あり――。それを全国のプロ野球ファンに知らしめたのは1996年6月5日の巨人戦だ。東京ドームの右翼席後方に長嶋茂雄監督(当時)がほほ笑むセキュリティ会社の広告看板があった。なんと金本が放った打球は客席をはるかに越え、ミスターの胸部を直撃したのだ。

 

 推定距離、140メートル。「プロに入って最高の当たりです」と金本は胸を張って言った。当時の金本の打順は7番。“史上最強の7番打者”の誕生でもあった。

 

 一方、弟分の新井は一見、金本よりも不器用に見えるが、ルーキーの年に53試合(金本はわずか5試合)も出るなど、一軍に定着するのは金本よりも早かった。

 

 規定打数に到達したのは金本と同じプロ4年目、参考までに4年目の2人の成績を比較してみよう。

 

 金本 140試合、369打数、打率2割7分4厘、24本塁打、67打点、四球61

 新井 140試合、512打数、打率2割8分7厘、28本塁打、75打点、四球38

 

 打率はともかくホームラン数、打点数で新井が金本を上回るのは、打席数(金本438、新井559)が違うため、ある意味、当然である。

 

 問題は四球数だ。新井よりも121打席少ない金本が61であるのに対し、新井は38。選球眼の差がはっきりとこの数字に表れている。

 

 金本を全国区にした一打が、東京ドームでの“ミスター直撃弾”なら、新井を全国区にした一打はプロ入り4年目の02年、初めて選出されたオールスターゲームで放ったミサイルのようなホームランである。

 

 舞台は松山・坊ちゃんスタジアム。両翼は99.1メートル、中堅は122メートルのメジャーリーグサイズのスタジアム。4回、松井秀喜(当時巨人)が若田部健一(当時ダイエー)にライトフェンス直撃の二塁打を見舞わった。最大瞬間風速16.5メートルの逆風を低い弾道が切り裂いた。これも素晴らしい打球だったが、松山のプロ野球ファンは7回、衝撃的な打球を目のあたりにして息をのむことになる。

 

 マウンドは日本ハム(当時)の隼人。5球目、148キロのストレートを、新井は逆風もものかは、左中間スタンドにまで運び去ってみせたのである。バッティング技術はともかく、パワーだけならゴジラにも引けをとらないことを、この夜、新井は証明した。ベールを脱いだ怪物といった趣があった。

 

 しかし、この後がいけない。「4番」が重荷になったのか、新井は翌03年、打率2割3分6厘と極度の不振にあえぐ。ホームランは28本から19本にまで減った。

 

 不振は続く。04年は若手の栗原健太らの台頭もあり、ついにレギュラーの座を明け渡す。出場機会も激減し、ついにホームラン数は10本にまで減った。

 

 翻ってプロ入り4年目にレギュラーを掴んで以降、金本にはスランプらしいスランプがない。99年以降、9年近くにわたって連続フルイニング出場を果たしている。

 

 金本がFA権を行使して阪神に移籍した03年、狭い広島市民球場から広い甲子園球場にかわったことでホームランが激減するのではないかとささやかれた。実際、ホームラン数は19本と9年ぶりに20本台を割った。

 

 だが、新井のようにスランプに陥ったわけではない。優勝請負人として阪神に呼ばれた金本は自らの意思でチームバッティングに徹したのだ。

 

 この年、3番に座った金本は俊足で鳴る2番・赤星憲広の足を生かすため、一発狙いを捨て状況に応じたバッティングに切り換えた。ひらたくいえば「つなぎ役」を自ら買って出たのである。

 

 自分を殺してチームを生かす――。その証拠がセ・リーグトップの93という四球数である。バットを振らなくてもチームの勝利に貢献できることを、この年の金本は証明してみせたのである。

 

 03年、阪神は18年ぶりのリーグ優勝を果たした。打線の軸は「つなぎ役」としてチャンスメイクに専念した金本だった。強面の星野仙一監督(当時)も、金本に対しては労をねぎらいこそすれ、批判めいたコメントはほとんど口にしたかった。金本がいなければ、タイガースファンが18年ぶりの美酒に酔うこともなかっただろう。

 

 さて、07年の金本と新井の成績を比較してみよう。

 

 金本 144試合、533打数、打率2割6分5厘、31本塁打、95打点、四球81

 新井 144試合、556打数、打率2割9分0厘、28本塁打、102打点、四球55

 

 先述したように選球眼にも起因するが、新井が金本より打率・打点で上回りながら四球数が少ないということは、要するにそれだけピッチャーに恐れられていないということである。王貞治は100個を上回る四球数を16シーズンも記録しているが、ある意味、これはホームラン数以上に価値のある長距離砲としての勲章である。

 

 近年、アスレチックの名GMビリー・ビーンの影響により、メジャーリーグでは打率やホームラン数よりも出塁率の方が重視される傾向にある。

 

 ちなみに通算出塁率は金本が3割9分2厘であるのに対し、新井は3割3分7厘。これではまだ新井は「アニキ」を越えたことにはならないだろう。逆にいえば金本なみの四球数と出塁率を確保した時、新井は名実ともに日本を代表するスラッガーとして名乗りをあげることができるのである。「アニキ」から学ぶことはまだ山のようにある。


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