パラリンピックにおける撮影取材の第一人者である越智貴雄が初めて現場でカメラを構えたのは2000年のシドニー大会である。

 

 当時、越智はまだ大阪の大学で写真を専攻する学生だった。大手新聞社のアシスタントカメラマンをしていた。「学生に、よく取材パスが出ましたね」と水を向けると、「新聞社も人手不足。パラリンピックにまで手は回らなかったんでしょう」と内情を明かしてくれた。

 

 越智にとっての最大の不安は撮影技術に関することではなかった。「どのようにして手助けしてあげればいいのか…」

 

 それは越智に限った話ではない。当時は私も含めて多くの取材者がそういう気持ちを持ち合わせていた。善意といえば聞こえはいいが、同情の入り混じった大変失礼な視線をパラアスリートに向けていたのではないか、との反省が残る。

 

 パラリンピックに対する越智の考え方が変わったのは、同大会で車椅子バスケットボールを取材してからだ。「タイヤの焦げた匂いに汗の臭いが混じる」。それはこれまで全く経験したことのないものだった。これが現場のリアリズムである。「それからちょっとクセになったんです」

 

 シドニーで私は越智とは違う意味で、この競技の奥深さを知った。障がいの重いローポインターにはローポインターの、障がいの軽いハイポインターにはハイポインターの役割があるのだ。Jリーガーから車椅子バスケの世界に転じた京谷和幸(現車椅子バスケ日本代表アシスタントコーチ)はローポインターゆえ、献身的な守りでチームに貢献した。サッカーではパスをもらう役回りだった男が、コートの上ではハイポインターに効果的なパスを出していた。

 

 京谷は語っていた。「サッカーでは走っている選手の少し前のスペースにボールを入れるのが基本。車椅子バスケも漕ぎながらパスをもらう。つまりパスを出す感覚、もらう感覚はサッカーと同じなんです。それに気づいたとき、これまでサッカーでやってきたことは無駄ではなかったんだと。それから、より車椅子バスケにはまるようになったんです」

 

 一億総活躍社会という言葉が躍っている。雲をつかむような国家プランで、実体感に乏しい。要するに国民一人一人、皆に役割と居場所があり、それぞれの経験が活かせる社会ということではないのか。それなら車椅子バスケを見ればいい。目指すべき共生社会の縮図がそこにある。

 

<この原稿は16年8月3日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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