広島カープが25年ぶりのリーグ優勝を決めた。今季のカープは、1980年代の黄金期に匹敵する強さだった。80年代のカープは、リーグ優勝に3回、日本一には2回輝いた。その黄金時代を支えていた選手のひとりが、守護神の江夏豊だ。江夏は繊細なコントロールによる巧みなピッチングで次々と打者を翻弄し、セーブの山を築いていった。あの洗練された投球術はどのように編み出されたのか。その原点を探ろう。

 

<この原稿は1993年9月号の『Number』に掲載されたものです>

 

「最近のピッチャーはブルペンを調整の場やと思うとるようやけど、これは間違いや。オレはな、ブルペンこそ闘いの場やと思うとる。それをこのキャンプで若い選手たちに教え込む。それがワシに与えられた仕事や」

 

 南国の西日を背に受けながら、江夏豊は自らに言い聞かせるように熱っぽく語った。ブルペン前の黒土のグラウンドに映し出された大きな影が、彼のなみなみならぬ決意を物語っているように感じられた。心地よい海からの風が吹き抜けるたびに、江夏は目を細め「野球をやるにはここは、ホンマええとこやで……」と貫禄たっぷりにつぶやいた。

 

 沖縄県名護市営球場。日本ハムファイターズのスプリングキャンプに、臨時投手コーチとして招かれた江夏は、コバルトブルーの海に囲まれた、勝手知ったる地で、野球漬けの日々を送っていた。

 

「都会はあかん。あれは人間の住むところやないでぇ……」

 

 愛好するショートホープに火をつけながら、そんなことも言った。南国の地特有のゆるやかな時間の流れが、江夏はひどく気に入っている様子だった。

 

「しかし、ここにおられるのも、もうちょっとの間や。(日本ハムの)オープン戦を見るかどうかはまだ決めとらん。気にはなるけどなァ……」

 

 問わず語りに、江夏はつぶやいた。

 

<江夏、覚せい剤で逮捕!>

 

 ショッキングな見出しがスポーツ紙に躍ったのは、その数日後のことだった。

 

 ゲームセットの宣告は、あまりにも唐突だった。それは悪夢としか言いようのない不幸な出来事だった。

 

 紅白戦が始まる前だった。江夏は冒頭のセリフを前置きにして、こんな示唆に富んだ話を披露してくれた。

 

「オレは肩が完全に仕上がり、コントロールが完璧になるまではブルペンに審判を立たせなかった。もしコントロールが定まっていない時期に審判に見られてしもうたら“アイツはコントロールが悪い”という先入観を持たれてしまう。これはピッチャーにとって大変損なことや。だから、コントロールが出来上がるまで、ピッチャーは絶対に審判をブルペンに入れちゃいかん。そのかわり、コントロールが完全に定まれば、ボールを4分の1ずつストライクゾーンから外に出し、審判を“洗脳”すればいい。かりにブルペンでボール半分はずれている球をストライクと認めたとする。そうしたら、審判はそのシーズン中、ずっとそこをストライクに取らなあかん。オレが“ブルペンは調整の場やない”というのは、そういうことや」

 

 含蓄のある話だった。本当にそんなことができるものか、という疑問がまず先に立った。次に、いや、江夏なら、そのくらいのことはやってのけるだろう。ならば、それを検証してみたい、と考えた。江夏の“究極の投球術”を探る旅を終えて、得た結論が一つ。それは江夏豊という稀代の天才の残した遺産は、今も球界に連綿と生き続けているということである――。

 

 江夏の足跡を振り返ろう。信じられないことに、高校時代の江夏は、単にボールが速いだけのノーコン投手に過ぎなかった。彼の話によればズバズバストライクをとれるときがあるかと思えば、突如四球を連発することもあったりで、3回を終わった時点で“与四球9、奪三振9、失点0”といった劇画のような試合も珍しくなかったという。

 

「高校時代に打たれたヒットらしいヒットは、3年夏の府予選で明星の平野光泰(元近鉄)に打たれた左中間ツーベース1本だけ。大抵はかすりもせんかった。あまりにもボールが速く、威力があるため、私はひまを見つけては学校の壁や廊下を掌で叩き、神経をマヒさせるという“練習”をしたものです。しかし、それじだけじゃ不十分というので、マネージャーから4.5キロの砲丸を2メートル先から投げてもらい、それを左手一本で受ける練習もした。いくら江夏のボールでも砲丸ほどの威力はないやろうってね。こんなことでもせんかったら、江夏のボールは受けられんかった」(大阪学院時代の捕手・猪飼裕實氏)

 

 1966年秋、タイガースからドラフト1位指名を受け、江夏はタテ縞のユニフォームに袖を通す。1000万円の契約金は、当時としては最高額だった。

 

 晴れてタイガースの一員となった江夏は、体づくりもそこそこに、高知県安芸市で行なわれていた秋季キャンプに参加した。初日、キャッチボールの相手を務めたのが現役を引退し、バッテリーコーチに就任したばかりの山本哲也だった。山本が振り返る。

 

「甲子園の予選で負けて以来、一度も投げていないはずなのに、ごっつう回転のええボールがボールがくるんです。あまりにもボールが速いんで“オマエ、軽く投げんと、肩痛めるでェ!”と注意すると、“いや、軽く投げてるんや”と言う。その言葉を聞いて、私は2度驚いてしまった。しかも肩が反り、ヒジが上がり、遅れて手首が出てくるという理想的なフォームで投げてくるため、ケチのつけようがない。左の親指の関節が曲がるほど小山正明のボールも村山実のボールも受けてしっていましたが、ひょっとしたらコイツの投げるボールはそれ以上かもしれん、とその時、直感したのもんです」

 

 1年目、江夏は42試合に登板し、12勝13敗、防御率2.74という成績をあげた。ルーキーながら、春先には6連勝も記録した。新人王のタイトルこそ、アトムズの武上四郎に奪われたものの、高校出のルーキーとしては十分、及第点の付けられる内容だった。

 

 しかし、江夏はその内容に、決して満足してはいなかった。不運な面はあったにせよ、負け数が勝ち数を上回ったのは、大事な場面でタイムリーを打たれたからではないのか。オレは不用意なボールを内角に投げ過ぎるのやないか――。そのようにシーズンを総括し、自己批判した江夏は右打者には最も有効とされる外角低目のストレートの精度を高めることに心血を注ぎ始める。ピッチャーとして生きる道を、まさに外角低目、その一点に求めたのである。

 

「オレは外のボールをマスターしたい。できたら力を貸して欲しいんや」

 

 安芸での秋季キャンプを前に、江夏はコーチの山本哲也に声を掛けた。江夏は地味な存在ながら、キャッチングの巧い山本が気に入っていた。

 

 いくつか方法論を考えた挙句、山本はタイガースに古くから伝わる、コントロール矯正法を江夏に授けた。それはホームベースの両脇に杭を立て、ストライクゾーンの空間をゴムヒモで明示するというものだった。キャッチャーから見て、右下隅、山本は来る日も来る日もその位置にミットを構え続けた。

 

 山本が述懐する。

 

「1日、200球、投げ込むのは全て外角低目のストレート。それを1カ月間、びっしりやった。もともと、コントロールはいいから、調子のいい時には、10球続けて同じボールが来る。大ゲサでなく、その10球の間、私は1ミリもミットを動かす必要がなかった」

 

 外角低目への正確無比のコントロールは、こうして完成した。しかし、これはあくまでも第一段階。江夏は次のステップとして、ストライクゾーンからボール半分外にはずすという究極の技術開発に取りかかった。

 

 ベース脇の杭をボール半個分(捕手から見て)右にずらし、ゴムヒモが指し示す、右下脇の空間を狙って、寸分の狂いもなくボールを通過させる。誤ってゴムヒモをかすめると、江夏はまるで妖刀でも見つめるような目つきで自らの左腕をにらんだ。江夏にとって18.44メートルの空間は、さながら臨床実験の現場だった。彼はブラック・ジャックのように辛抱強く自らのメスならぬ指先と対話を続けながら、技術を磨き上げていったのである。

 

 セ・リーグ元審判員の三浦真一郎が語る。

「キャンプのブルペンをのぞくと、決まって、“後一週間待ってくれ”といわれたものです。コントロールのつかない死に球を見られたくなかったんでしょう。そのかわり、肩が仕上がると、外角いっぱいにピシャリと決まった。ちょっと外にはずれているようなボールをストライクと判定すると、“そこまでは入るんやな”と確認を入れにきましたよ。ほとんどの審判が同じような目にあったんじゃないですか」

 

 2年目のシーズン、江夏は完全無欠のピッチングを披露する。49試合に登板して25勝12敗、防御率2.13。奪三振401は日本記録であると同時に、サンデー・コーファックスが持つ382という米大リーグ記録をもしのぐものだった。この年、江夏は当時の左腕投手としては珍しい沢村賞にも輝いた。

 

(中編につづく)


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