“ミスター赤ヘル”と言えば山本浩二の代名詞だが、これは1975年の広島の初優勝に由来する。「赤は戦いの色。今季は闘争心を全面に出す」。ジョー・ルーツ監督のたっての希望で、この年、初めて帽子やヘルメットの色が紺から赤になったのだ。

 

 4番に座り、打率3割1分9厘で首位打者に輝いた山本浩二はシーズンMVPにも選ばれた。躍動する「赤ヘル」のシンボル、それが山本浩二だった。

 

 もしルーツが何年か前に来日し、帽子やヘルメットの色を赤に変えていたら、おそらく「初代ミスター赤ヘル」の称号は、9月17日に他界した山本一義に与えられていただろう。貧打の広島にあって最も頼りになるバッターだった。彼が赤い帽子とヘルメットをかぶったのはこの1年だけだった。

 

 忘れられないシーンがある。75年の日本シリーズだ。第1戦は阪急の本拠地・西宮球場。広島が1点を返し、3対3の同点に追いついた8回表の攻撃。なおも一、三塁と先発の足立光宏を攻め立て、監督の古葉竹識は水谷実雄に代えて左の山本一義を送った。ベテランの熟達の技に賭けたのである。

 

 下手投げ対左。これは不利と判断した阪急・上田利治監督は切り札の名を告げた。この年、新人王に輝いた山口高志である。

 

 結論から言えば、山口のうなりを上げる豪速球に山本一義のバットはかすりもしなかった。空振り三振。結局、この試合は引き分けに終わったが、広島にとっては負けに等しかった。

 

 いくら山口のストレートが規格外だとしても、山本一義ほどの巧打者が、頭の高さにきたボールに手を出すだろうか……。

 

 真犯人は西宮球場の鉄塔だった。夕方近くになると一塁側の鉄塔の影が伸びてきて、マウンドと本塁の間を横切る。それが原因で一瞬、ボールが消えるような錯覚に陥る――。セ・リーグの打者はこうしたグラウンドの構造に慣れていなかったのだ。

 

 山本一義に最後に会ったのは昨年8月である。75年の日本シリーズについて問うと「あれは山口君が上だったんですよ」と受け流し、サラリと話題を変えた。実に紳士的な振る舞いだった。昔かたぎの物腰の一方で、人柄には奥行きを感じさせた。ポストシーズンゲームでの古巣の戦いを誰よりも楽しみにしていたに違いない。合掌。

 

<この原稿は16年10月5日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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