“横浜一筋”を貫いた三浦大輔さんは、今季限りでユニホームを脱ぎました。横浜ファンのみならず、多くの野球ファンを魅了した三浦さんに、現在の心境を語ってもらいましょう。

 

 最後の試合(10月29日対東京ヤクルト)は、先発で7回途中まで投げて10失点でした。この試合、5回までに7点を奪われ、さらに6回にも3点を奪われ、6対10に。その裏の攻撃が僕からだったので、6回を投げ終えた時点で“もう終わりや……”と思い、ファンに一礼をしながらマウンドを降りたんです。

 

 すると、ベンチにいるアレックス・ラミレス監督が、僕に向かって指を一本立てたんです。僕は最初、その意味が分からず、ベンチに戻り、ナインたちと握手をしていると、篠原貴行投手コーチが隣に座ってこう言いました。

「監督が“もう1回打席に立って、もう1回、ひとりだけ投げよう”と。大丈夫ですか?」

 

“さすがにこの回までだな”と思っていたので、正直驚きました。ラミレス監督に「まだいいんですか?」と聞くと、「いくよ」と。ラミレス監督が「もう1回、ひとりだけ投げよう」と声をかけてくれた時には、もう涙が止まりませんでした。監督の粋な計らいで、最後は雄平選手を空振り三振に仕留めることができました。

 

 25年の現役生活のなかで、僕はたくさんの指導者に出会い、様々なことを学びました。98年に横浜がリーグ優勝、日本一になった時に監督を務めていた権藤博さんからは「マウンド上で戦う姿勢」を教わりました。

 

 権藤さんには「逃げるな。マウンドで弱気なところは見せるな」とよく言われました。僕が試合で逃げのピッチングをした時はものすごく怒られましたが、攻めのピッチングで打たれた時は何も言いませんでした。「マウンドに上がるからには、腹をくくって1球1球投げる」という、ピッチャーの心得を教えて頂きました。

 

 今後の予定は全く未定ですが、いずれは横浜のユニホームを着てチームに戻りたいと思っています。現役生活で学んできたことを後輩たちに受け継げるように、まずはイチから野球を勉強し直さなければいけません。

 

 国際球は慣れるまでが大変

 さて、来年3月には第4回WBCが開催されます。国際大会の時期になると、毎度のごとくボールの違いが話題にあがります。僕はWBCに出場した経験はありませんが、国際大会は04年アテネ五輪で経験しています。この時に初めて国際球を握りましたが、普段使用しているボールとは感覚が全然違いました。特に指先の感覚です。

 

 国際球とNPB使用球では、皮質や縫い目の高さなどが異なりました。また、ひとつひとつ形や大きさがバラバラなんです。実際に投げてみると、ボールの曲がり具合が違いました。

 

 僕は縫い目に指をかけずにフォークを投げていたので、指の間からボールがすっぽ抜けていく感覚でした。逆に、スライダーは縫い目に指が引っかかり、思っていたよりも大きく曲がりました。でも、曲がり過ぎるとバッターには見極められてしまいます。変化球はバッターの手元でほんの少し軌道を変えるのが一番いいのです。

 

 国際球とNPB使用球ではボールの質が違うので、慣れるまでが大変です。本来はシーズン中も国際球と同じものを使用するのがベストでしょう。2020年東京オリンピックに向け、球界全体で考えていかなければならない問題だと思います。

 

<三浦大輔(みうら・だいすけ)>

1973年12月25日、奈良県出身。92年ドラフト6位で横浜大洋ホエールズ(当時)に入団。1年目に一軍デビューを果たすと、93年にプロ初勝利、初完投を記録。95年から先発ローテーションに加わる。98年は12勝をマークし、チームのリーグ優勝、日本一に貢献。04年にアテネ五輪に出場し、銅メダルを獲得した。12年にNPB史上47人目の通算150勝を記録すると、翌年に39歳3カ月で球団最年長完封記録を更新した。14年から一軍投手コーチを兼任。今季限りで現役を引退した。獲得タイトルは、最高勝率(97年)、最優秀防御率(05年)、最多奪三振(05年)。通算成績は535試合に登板し、172勝184敗、防御率3.60。身長183センチ、体重88キロ。右投右打。


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