第185回「常識的な非常識人 冒険家・荻田泰永」
「様々なケースを想定しておけば、どんなことも想定内。想定内であるなら怖いことなどないんですよ」
北極を1人でそりを引きながら横断してしまう男「荻田泰永」は優しい笑顔とは裏腹に、想定外なことを口にした。TV番組の「クレイジージャーニー」で見ていたようなひげもないし、ぎらつきもない。外見は極めて普通の人。街中で会ったら冒険家とは思わないだろう。
だが、話し出したら本領発揮。半径1000kmにいる人間は自分だけというシチュエーションで、危険と隣り合わせの時間を数十日も過ごす。歩いていたら氷の割れ目で海に落ちるし、テントで寝ていたらシロクマが近寄ってくる。起きたら氷が流されて、進んできた距離以上に引き戻されていることもあるという。
「そんな毎日でどんな怖い体験をされましたか?」という質問に対しての彼の答えはあっけないものだった。それが冒頭で紹介した「想定内であるなら怖いことなどない」発言である。「冒険中というのはリスクを冒せないので、すべてに関して想定しておくことが大切です」。どんな大変な経験談が聞けるかと思っていた僕は拍子抜けだ。
シロクマが来たら慌てず距離があるときにこちらに気がついてもらう。氷が薄い時はそりを引く紐を長くして、自分が海中に落ちてもそこにそりが来るのを防ぐ。聞けば聞くほどすごい話だが、そんなことの積み重ねこそが大事なのだという。「冒険」と聞くと、一か八かの賭けをしてチャレンジするイメージだが、実際は準備とシミュレーションを重ね、いかにリスクを減らしておけるかが勝負となる。
事前準備の大切さがよくわかる。これは僕の専門種目であるトライアスロンも全く同じ。レース前は様々な想定をし、道具や補給を準備し、トレーニングを重ねるのだが、実際走り出したらいろいろなことがあるので細かく考えすぎない方がいい。でもそれは丁寧な準備があってこそ。準備8割とは上手く言ったものだ。
極限だからこそ見える景色
そんな彼でも、冒険の始まる瞬間、スタート地点に1人で立ったその時はこれから始まる厳しさと、恐ろしい孤独感が襲ってきて泣くという。無理もない。周囲1000kmに人はいない。何かあって救助を求めても最短で数日かかる。何があろうと1人で解決できないと生きていけないのだ。でも一通り泣き尽くすと、そこからは淡々と歩を進める。
マイナス50度の中でそりを引き進む過酷な状況で、体重は60日で15㎏以上減る。それでも、そこでしか見られない景色を見られることが幸せだし、孤独はないという。
「確かに物理的には1人。でも、たくさんの方に応援してもらい精神的に1人ではないから耐えられる。都会の人は精神的な孤独を、物理的に群れるという行為でごまかしているんじゃないかなぁ」。この言葉にはあまりにドキッとさせられる。孤独かどうかは物理的なものでなく、精神的なものだと。それがなければ大都会にいても孤独だし、それがあれば北極にいても孤独には感じない。都会に住む我々への重い投げかけに聞こえた。
さらに、冒険の途中は特に何かが欲しいと思わないそうだ。「そこにあるものがそれだけなら、それ以上のものを望んだりすることはないんですよ。選択肢があるからこそいろいろ望むんでしょうね」。だから、トナカイの肉しかなければそれを食べ、マイナス50度で眠るしかなければ寝る。それ以上でもそれ以下でもない。そこにしかないもの以上は望んでも仕方ないし、そんな気持ちなど湧いてこない。
考えたら当たり前なのだが、選択肢が多すぎる現代社会の生活では常に自分の持ってないものに憧れるばかり。極限の地に立っているからこそ、そんな欲の世界を俯瞰的に見られるのだろう。
冒険とは何のためなんだろう。人間活動に必要なのだろうか?
そんな疑問が彼と話していると溶けていくような気がした。物事をこのくらい真剣に突き止められれば、その真理みたいなものが見えてくる。人間とはすごい力を持っているようだ。そしてそんな経験のシェアこそが、冒険の役目なのかもしれない。
彼との別れ際の言葉。
「では北極から戻ったら、また飲みましょう!」
横で聞いていた人には意味が分からなかっただろう。そんな事など気にもせず、彼は人混みに吸い込まれていった。
白戸太朗(しらと・たろう)プロフィール
スポーツナビゲーター&プロトライアスリート。日本人として最初にトライアスロンワールドカップを転戦し、その後はアイアンマン(ロングディスタンス)へ転向、息の長い活動を続ける。近年はアドベンチャーレースへも積極的に参加、世界中を転戦していた。スカイパーフェクTV(J Sports)のレギュラーキャスターをつとめるなど、スポーツを多角的に説くナビゲータとして活躍中。08年11月、トライアスロンを国内に普及、発展させていくための会社「株式会社アスロニア」を設立、代表取締役を務める。著本に『仕事ができる人はなぜトライアスロンに挑むのか!?』(マガジンハウス)、石田淳氏との共著『挫けない力 逆境に負けないセルフマネジメント術』(清流出版)などがある。
>>白戸太朗オフィシャルサイト>>株式会社アスロニア ホームページ