1998年1月、クリスマス休暇が明けて、スペインリーグ2部が再開した。

 

 98年6月、安永聡太郞は1年間のスペインリーグ2部、ウニオ・エスポルティーバ・リェイダ・S・A・D(以下、リェイダ)でのレンタル移籍を終えて、横浜マリノスに戻った。 

 

 この時期、フランスではワールドカップが行われていた。ワールドカップ初出場を果たした日本代表は、グループHに入り、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと対戦。1つの勝ち星、引き分けすらも挙げることはできなかった。

 

 そのチームの中には、安永と一緒にワールドユースに出場した中田英寿がいた。彼は96年アトランタオリンピック出場をスプリングボードとして、日本代表の中心選手となっていた。この大会の後、中田はイタリアのペルージャへと移籍。安永と入れ違いに欧州へ渡る形となった。

 

 マリノスは、ハビエル・アスカルゴルタ体制になって2年目を迎えていた。

 

 53年生まれのバスク人で72年にアスレティック・ビルバオのトップチーム昇格。しかし、現役時代は短く、76年に引退し指導者の道に入った。エスパニョール、セビージャ、テネリフェなどの監督を経て、93年にボリビア代表監督に就任。チームを94年ワールドカップ・アメリカ大会に導いた。その後、チリ代表監督を経て、97年から横浜マリノスの監督となっていた。

 

 アスカルゴルタはスペイン帰りの安永にとってやりやすいものだったという。

「リェイダに行ってすぐの練習のとき、(前線にいる)ぼくのところにボールが来たので、日本の感覚でボランチに一度、落として前に出たんです。そうしたら、監督のファン・デ・ラモスがピーって笛を鳴らして停めたんです。ボールが折角、フォワードまで行っているのに、なんで下げるんだ。自分で(ゴールに向かって)行きなさいって。もちろんペナ(ルティ・エリア)ぐらいのところで受けたら、そうするんですけど、ハーフラインとペナの間、丁度真ん中ぐらいだったんです。日本だったら、まずボールを取られないことを考える。その感覚が染み込んでいた。それがファン・デ・ラモスには納得できなかったみたいなんです。フォワードなんだから、受けたら自分で行けと。そういう動きが、リェイダではそこそこできるようになっていた。そして横浜に帰ると、監督もスペイン人で同じような指示だった。自分としてはすごく気持ち良くサッカーができた」

 

 ワールドカップによる中断明けの初戦、7月25日のベルマーレ平塚戦で安永は先発起用されている。元スペイン代表フリオ・サリナスの怪我により、城彰二と2トップを組むことになったのだ。

 

 この試合は、マリノスが4対1で勝利している。安永はサリナスがスタメン復帰した第1ステージ最終戦、8月8日のジェフユナイテッド市原戦を除いて、第1ステージ全ての試合で先発している。

 

日本人監督にはできない中村俊輔の育て方

 

 アスカルゴルタで印象に残っているのは、中村俊輔の起用方法だったという。

 

 中村は安永が復帰する前年の97年に桐光学園からマリノスに入っていた。初年度から試合に起用されたが、出場時間は限られていた。

 

「アスカルゴルタは3年で代表に行かせると言っていた。あいつは線が細かったし、初年度のリーグ戦では2試合しかフル出場させていない。60分だけ使うからマックス(最大の力)でやれとか、チームが間延びしていた時間から使うとか。俊が出るときには、必ず周りにハードワーク出来る選手を置いた。日本人監督では、ああいう起用はできなかったと思う」

 

 アスカルゴルタは、テネリフェ時代にアルゼンチン代表、そしてレアル・マドリーで輝きを放ったフェルナンド・レドンド、ボリビア代表時代にマルコ・エチェベリを見出し、若手の育成に優れた監督として知られていた。

 

「俊もフルに出たいと思っていたはず。アスカルゴルタは居残り練習を禁止していた。俊は彼が帰るのを見計らって、チームマネジャーをグラウンドに引き連れてずっとキック(の精度)を磨いていた。あいつにとっては努力することが普通だったんだと思う。端から見てもすごく打ちこんでいた。俊ぐらいの才能があって、努力をする選手ならば必ず芽は出たんだろうけど、1年目は大切に使ってもらって、2年目、3年目と着実にステップアップして、4年目のオズワルト・アルディレス体制時に才能が開花した」

 

復帰後初ゴール

 

 第1ステージを4位で終えたマリノスは、アスカルゴルタを解任し、ヘッドコーチだったアントニオ・デラクルスを監督代行に据えた。8月22日、第2ステージ開幕戦の相手は、第1ステージを優勝していたジュビロ磐田だった。ジュビロは、ブラジル代表のドゥンガの他、名波浩、藤田俊哉、服部年宏、奥大介、中山雅史といった日本代表を揃えていた。

 

 この試合も城とサリナスの2トップで、安永はベンチスタート。後半から安永はサリナスに代わってピッチに入った。試合は同点で延長に入った。延長後半、安永はフリオ・セサル・バルディビエソからのボールを胸でトラップ、強引に左足で押し込んだ。復帰後初得点だった。このゴールが延長Vゴールとなり、マリノスはジュビロを3対2で下した。

 

 この後もマリノスは、ヴェルディ川崎、ヴィッセル神戸、ジェフ、横浜フリューゲルスを下し、勝利を重ねた。

 

 スペインでの経験、マリノスでのプレーを評価されたのだろう、安永は9月末に日本代表候補に選ばれている。これは日本代表監督に就任したフランス人、フィリップ・トルシエの下での初合宿だった。安永にとっては念願のフル代表招集だった。

 

 安永はこう振り返る。

「日本に戻って1年ぐらいが一番調子良かった。リェイダで、小さい頃にサッカーを始めた頃の感覚を取り戻していた。ああ、俺、サッカー好きだったんだって。日本にいると、いい車乗って、女の子紹介してもらったり、という方向に気持ちが向いていたから。いいプレーを見たら、“上手いなー、こうするんだ”と思って、次の練習で試してみたり」

 

 しかし、その状態は長く続かなかった――。

 

 さらに、安永とマリノスを巡る環境が大きく変わってしまう。フリューゲルスが消滅、マリノスと合併することになったのだ。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)など。最新刊は『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com

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