燻っていた火が一気に燃え上がったのは、2001年9月のことだった。

 

 2001年シーズン、第1ステージから安永聡太郎は清水エスパルス監督のズドラヴコ・ゼムノヴィッチに不満を募らせていた。

 

 ゼムノヴィッチは選手に自由を与え、好きにプレーしていいと指示した。しかし、勝利すればいいが、負けたときは選手を批判した。監督の仕事とはチームの方向性を決めることである。好きにやれと言って、上手く行かなければ選手のせいにするというのは安永にとっては無責任に映った。そもそも彼には一貫した戦術がないようにも安永の眼に映っていた。安永はしばしばゼムノヴィッチに食ってかかるようになった。

 

 翌年に自国でのワールドカップ開催を控えていた。ワールドユースで同じチームだった中田英寿、松田直樹たちは日本代表の中心選手となっていた。安永は彼らとの距離が開いてしまったことを認め、内心焦りを感じていた。

 

 彼はこう振り返る。

「ぼくの嫁はワールドカップに出て欲しくて仕方がなかったんですよ。ぼくは、自分ではやるよ、やるよって口では言いながら、逃げていた。同じ土俵に上がると、勝ち負けがはっきりするじゃないですか。だから土俵に上がらず、口ばっかりだった。大丈夫だよ、まあ見てろよって。そうしたら嫁はあたしと目線が違うって言われた。ショックでしたね」

 

 第2ステージに入ると安永は試合にさえ出してもらえなくなった。そして彼は悶々とした思いを抱えていた。

 

 すれ違う思い

 

 9月6日のことだった。

 

 翌日の『日刊スポーツ』を引用する。

 

〈清水FW安永聡太郞(25)が6日、清水市三保グラウンドでの練習後にゼムノヴィッチ監督の方針を痛烈に批判した。「練習で簡単な状況しかやらないじゃ点は取れない。中央突破できないならそういう練習をすべき。分かっていない。頭悪いんじゃないですか」。第1ステージ(S)は12試合に出場しながら終盤に練習態度が原因で外され、第2Sからは試合どころか練習でも常に若手組。放出も覚悟の発言だが、口を閉ざしている同監督の対応次第ではチーム全体の士気にも影響を及ぼしそうだ〉(9月7日付)

 

 実際の言葉と記事は違ったのだと安永は弁明する。

「記者の方にはこう言った。“監督と選手の間に信頼関係はないし、監督が新聞紙上で選手の批判をしている。そんな監督にどうやってついていけばいいんですかね”という感じ。練習では(実際の試合で)やりもしないことをやる。試合では選手に任せきり。“それで駄目だったら文句言われたらやってられない”と」

 

 事実関係はともかく、炎は大きくなり、安永の手に負えなくなった。

 

 この発言は監督の人間性を侮辱するものだとクラブが問題視。安永は1ヶ月の自宅待機処分を受け、謝罪文を社長宛に提出させられた。

「ジムは使っていいけど、グラウンドには顔を出すなって。当時住んでいたマンションは海に近い、土手っぺりにあったんです。朝晩、ずっとそこを走ってました。その間、“なんで俺、こんなことをしているんだろう”って思ってましたね」

 

 そんな安永に手を差し伸べたのが、古巣の横浜F・マリノスだった。

 

 ただ、清水側は態度を硬化させていた。

 

〈クラブ側は18日に、ゼムノヴィッチ監督(47)への人格批判発言に対して、安永を自宅謹慎一か月とする処分を発表したばかり。すでに先週から自宅待機という形で処分していた。同時に、安永の移籍先についても探していた。処分発表の際に「オファーはない。移籍は難しい」と沢入常務は話していたが、実は週明け早々にも古巣への復帰話が浮上していた。

 

 フロント幹部内からは「(批判などを)いえばすぐ出られる(移籍)という前例を作らないように、筋を通すべき」という厳しい意見も出ているが、移籍がまとまった場合には処分を2週間程度に軽減することが検討される模様〉(『スポーツ報知』9月20日付)

 

 古巣復帰からの暗転

 

 横浜FMとの話が正式にまとまったのは9月29日のことだった。翌年1月31日までのレンタル移籍という形で安永は横浜FMに戻ることになった。

 

 この2001年シーズン、横浜FMは結果が出ず、降格圏内を彷徨っていた。直近の試合も3連敗。チームの中心選手である中村俊輔のプレースタイルを良く知る安永はクラブにとって即効性ある補強だったのだ。

 

 実際、横浜FMは降格圏内から脱し16チーム中、13位でシーズンを終えている。

 

 そして安永は清水との契約終了後、横浜FMと契約延長した。

 

 しかし――。

 

 翌シーズン途中、安永は監督のセバスチャン・ラザロニから戦力外扱いを受ける。それは干されるという表現がぴったりだった。試合はもちろん紅白戦にも起用されなくなったのだ。ラザロニから嫌われたのは2連休明けのトレーニングをぎっくり腰という理由で休んだからだ。わざわざ休みを与えたのに、体をいたわらなかったのかと快く思わなかったのだ。

 

 またも彼は移籍を検討せざるえなくなったのだ。

 

「エスパ(エスパルスの愛称)でどうしょうもないときに、マリノスが拾ってくれた。マリノスに恩義を感じていたんです。国内でやるんならばマリノスのユニフォームしか着たくない。国内の他のクラブでやるんだったら、リェイダのときと同じように2部でもいいから海外のクラブでテストを探して欲しいと言ったんです」

 

 そして2002年8月、安永はスペイン行きの飛行機に乗っていた。マドリッドで乗り換え、北部ガリシア地方のフェロールに向かった――。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)など。最新刊は『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com

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