李忠成をイングランドのサウサンプトンFCへ、前園真聖をブラジルのサントスFCとゴイアスFCに移籍させる。またウェズレイを名古屋グランパス、レアンドロ・ドミンゲスを柏レイソルに連れてくる。あるいは日本代表で頭角を現しつつある杉本健勇に早くから目をつける――。

 

 これらは代理人・稲川朝弘の仕事のごく一部である。

 

 代理人とは影のような存在である。表に出ることは少ないが、皮膚の下に隠れた筋肉のようにこの世界を動かしている。ただ、クラブにとっては厄介な存在にもなりうる。交渉の際、丁々発止のやり取りで摩擦を起こすことも、あるいは表から見えないことをいいことに、手を汚す人間もいる。そのためか、このビジネスを始める、あるいは関わりたいと思う人間が多い中、長く続いているのはごく一握り。稲川はその一人である。

 

 1962年5月、稲川は福岡県小倉市で生まれた(稲川が生まれた翌年、小倉市は合併により北九州市に名前を変えている)。父親が新聞記者だったため、彼は大学を卒業するまでに引っ越しを11回したという。見知らぬ土地を渡り歩いたことが彼の人格形成に少なからず影響を与えたことは間違いない。

 

「サッカーを始めたのは所沢にいたときだから、6歳かな。ちゃんとしたサッカークラブに入ったのは9歳。相模原の少年団でした」

 

 小学校4年生のとき、名古屋に転居することになった。

「転校先では野球とサッカー、両方やってました。どちらかというと野球中心だったかもしれない。そして中学校ではサッカーをクラブチームで続けていた」

 

 中学校を卒業すると愛知高校に進んだ。

 

 愛知高校は1876年設立の私立学校であり、全国大会でも上位に入る強豪校だった。

「(愛知県の)日比野中学が全中(全日本中学校サッカー大会)で優勝したメンバーが入って愛知高校がバーンと強くなった。ライバルの岡崎城西高校も強かった。愛知はサッカーどころだったんです」

 

 高校入学直後、稲川は先輩部員たちの水準の高さに圧倒されたという。

「当時の名古屋というのは(テレビ東京系列で放映していた)『ダイヤモンドサッカー』が映らない場所。それなのに、あまりに先輩たちが上手かった。どこでこの人たちはこんなテクニックを身につけているんだろうと。日比野(中学)が全国を獲ったりしているので、選抜に選ばれたり、あるいは静岡のチームと日頃から試合をしていたから、そこで学んでいたんだと思う。誰かがやっているのを真似したら出来るようになったという人ばっかりだったんじゃないかな」

 

 ただ、“接ぎ木”の技術の限界も感じていた。身体的能力が高い選手が集まっていたこともあるだろう、三重県の四日市中央工業、あるいは静岡県の藤枝東といった全国でも上位校相手と練習試合をすると互角以上の結果を残したが、徹底的にテクニックを重視した静岡学園には歯が立たなかった。同じスタイルを標榜する相手と対戦するときには、その“深度”が重要なのだ――と稲川は後に気がつくことになる。

 

 幻となった読売クラブ入り

 

 愛知高校での生活は長く続かなかった。再び父親が転勤になり、関東に引っ越しすることになった。

 

「愛知高校で全国大会の夢を見ていたのに、やんちゃ坊主だったから1人で置いておけない。転校しなきゃなくなった。愛知高校って当時は男子校だったんですよ。それが嫌で今度は女子のいる学校に行きたかった。そしてサッカーは別のところでやろうと」

 

 稲川の頭に浮かんだのは読売クラブだった。現在の東京ヴェルディである。

「今から考えるとびっくりするんだけれど、自分で読売クラブに電話したんだ。そうしたら、相川(亮一)さんっていう監督が出てくれて、“練習をやっているから来い”って言ってくれた」

 

 読売クラブは77年に日本サッカーリーグ(JSL)一部に昇格。翌78年から相川が監督となっていた。

 

 相川はサッカーが陽の目を見なかった時代、この競技に取り憑かれた人間の1人である。神奈川県の進学校、栄光学園から早稲田大学に進んでいる。独自に世界のサッカーを研究した男だった。

 

「ユースの練習だと聞いて行ってみたらトップしかいなかった。それこそ、松木(安太郎)さんや小見(幸隆)さんの世界。読売クラブらしいと思うんだけれど、(ピッチの)半面を使ってゲームが始まった。ウォーミングアップかなと思ったら、結局90分やっていた。荒っぽい人は多くて、怖かった。何回か本当に削られた。“俺、愛知高校でもレギュラーでもない16才なのに”って思いながら」

 

 読売クラブは与那城ジョージ、ラモス・ソブリニョ(後の瑠偉)などのブラジル人を擁し、南米の技術と狡さ、激しさを押し出すチームだった。企業の福利厚生の一環という枠組みに留まっていたJSLでは異端の存在だった。

「自分は短気だったので(ドリブルで)何回か突っかけて行ったのね。それを相川さんは認めてくれたみたい」

 

 練習が終わると相川からこう声を掛けられた。

――おめぇなんか欲しくないけどさ、あの何回かが気に入った。入れてやるから明日から来い。

 

 稲川は「まだ引っ越していないので、明日からは無理です」と慌てて首を振った。

 

 このとき、読売クラブのユースには、稲川よりも1つ年上の都並敏史、戸塚哲也といった才能ある選手がいた。もしそこに稲川が加わっていたら、興味深い化学反応が起こっていたかもしれない。

 

 しかし――。

 

 彼は読売クラブに入ることはなかった。愛知県に戻った後、喧嘩に巻きこまれ右腕を骨折してしまったのだ。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。最新刊は『ドライチ』(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com

◎バックナンバーはこちらから