サッカーロシアW杯開幕まで約2週間――。4月に監督が交代し、コーチ陣も入れ替えがあった。ドタバタ劇の中、前監督時から代表チームをコーチとして支えているのが手倉森誠だ。今では彼が現代表の内情を一番知る人物だ。手倉森はクラブ、五輪代表の指揮官を務めるなど現場経験が豊富である。監督と選手の架け橋役の手倉森がロシアW杯での日本躍進のカギを握っているのではないか。彼にスポットを当てた2年前の原稿を読み返そう。

 

 <この原稿は2016年6月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)を一部再構成したものです>

 

 今夏のリオデジャネイロ五輪でメキシコ五輪以来、48年ぶりのメダル獲得を目指すサッカーU-23日本代表は、2014年U-22アジア選手権、アジア大会ともにベスト8止まりだったことから「谷間の世代」と呼ばれていた。

 

 それがリオ五輪最終予選を兼ねたカタールでのU-23アジア選手権では無敗で頂点に立ち、目覚ましいばかりの成長ぶりを見せつけた。

 

 約2年半という時間をかけて、チームを手塩にかけて育てたのが監督の手倉森誠である。

「このチームに一番足りなかったのは反骨心です。勝っても、そんなに喜ばないかわりに、負けても悔しがらない。“オマエたち、負けても悔しくないのか?”と正面切って言ったこともあります。

 

 変化の兆しが見え始めたのは韓国・仁川でのアジア大会です。満員のスタジアムで韓国相手に成す術なく敗れた。その時の悔しがり方を見て、“こいつらでも感情を表に出すことがあるんだ”と、ちょっと驚きました。

 

 皆、内に秘めた熱いものは持っているんです。でも、それを外に出すのがうまくない。自分から突き抜けようとしない。僕に言わせれば謙虚過ぎるくらい謙虚な年代なんです。結果を出せなかった理由のひとつに、それがあった。

 

 でも、それじゃ国を背負って戦えない。“オマエたちに格下は一切ない”と檄を飛ばしたこともあります。逆に言えば本気になったり、競争したりすることが少ないチームだったから、まだまだ成長の余地は残っていると思います」

 

 チームを率いる手倉森もまた谷間、いや谷底に落ちた時期がある。ここまで決して日の当たるサッカー人生を歩んできたわけではない。

 

 青森生まれの手倉森には浩という双子の弟がいる。高校サッカーの強豪・五戸高で活躍した手倉森兄弟は日本サッカーリーグ(JSL)2部の住友金属工業蹴球団(現鹿島アントラーズ)に入団する。Jリーグが産声を上げる7年前のことだ。

 

 会社では工場に配属された。溶鉱炉の前で汗びっしょりになりながら働いた。

「朝の8時から昼の2時まで。サッカーの練習はそれから。“オレはサッカーをやるために、ここにきたんだ”という不満を持っていました」

 

 そんな折、ブラジルへのサッカー留学の話が舞い込む。行き先は名門サンパウロFC。名将テレ・サンターナと一緒の寮生活も経験した。

 

 だが帰国して愕然とした。JSL2部の本田技研工業から黒崎比差支、長谷川祥之、本田泰人らが移籍し、自分のポジションがなくなっていたのだ。Jリーグ参入を見据えた強化策が、その背景にはあった。

 

「僕としては面白くないですよ。“オマエに期待しているからブラジルに行ってこい”と言われ、送り出されたのに、帰ってきたら本田の選手ばかりになっているんですから。あの言葉は、いったい何だったのかって思ってしまったんです」

 

 それからというもの、サッカーに身が入らなくなってしまった。パチンコにうつつを抜かす日々。Jリーグが誕生すると聞いても「プロになったからといって、そんなに盛り上がるわけがない」と高をくくっていた。

 

 ところが、である。Jリーグの熱狂は、手倉森の想像を、はるかに超えていた。鹿島の地を去っていた手倉森は開幕戦をテレビで観た。目に飛び込んできたのは、ジーコのハットトリックだった。

 

「オレって何てバカなことをしたんだろう……」

 

 ジーコがブラジルから、この国にやってきたのは1991年5月である。38歳でカムバックを果たすと聞いて驚かない者はいなかった。

 

 だが、ジーコには明確な目的があった。住金はチームのプロ化を機にホームタウンである茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)との結び付きを深めたいと考えており、スポーツ庁長官時代のジーコの活動に興味を示していた。

 

 加えてリーダーシップ。<私は選手たちに技術や戦術だけではなくプロとは何なのかを教えるため、時には日常生活やサポーターへの接し方まで細かく指導した>(自著「ジーコ自伝」朝日新聞社)

 

 その中のひとりが手倉森である。ブラジル留学から帰国したばかりの手倉森の任務はジーコの車番。ジーコの車を運転して試合会場に行き、カギを渡した。こうした触れ合いを通じて、手倉森は“神様”からいろいろなことを教わったのである。

 

 手倉森によれば、ジーコの第一印象は「怖い」というものだった。遊びに行くときもジーコには「見つからないように」と細心の注意を払った。

 

「今にして思えば、ジーコが僕らに指示したのは当たり前のことでした。生活においては寝るタイミング、食事をとるタイミング。要するにコンディショニングに気を付けろ、ということです。試合前には部屋から出ないで、集中力を保っていました。

 

 ピッチに立てば立ったで、”インサイドキック以外は使うな“と。このようにジーコの教えは基本的なものばかり。でも、それがプロとして生きていくには、一番重要なことだと後になって気付きました」

 

 28歳で指導者に転じた手倉森はモンテディオ山形、大分トリニータ、ベガルタ仙台のコーチを経て、2008年、仙台の監督に就任した。東日本大震災に見舞われた11年は4位、翌12年は2位と健闘した。それに伴い、手倉森の評価も急上昇していった。

 

「僕は昔のJSL、地域リーグ、JFL、J2、J1と全部のリーグを経験している人間なんです。6人の監督に仕え、12年をコーチとして過ごした。あまり、こういう人間はいないと思います」

 

 谷底から這い上がってきた指揮官が“谷間の世代”を率いる。南米の大地に花は咲くのか――。


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