ロシアW杯開催前日の13日、2026年に行われるサッカーW杯の開催地が決定した。開催地はW杯史上初となるアメリカ、メキシコ、カナダの3カ国共催である。W杯での共催は2002年の日韓開催が初めてだった。果たしてどのような経緯で共催となったのか。そこに至るまでを記した22年前の原稿を、今一度、読み返そう。

 

<この原稿は1996年8月号『月刊現代』(講談社)に掲載されたものです>

 

 運命を決した一通の手紙のコピーが手もとにある。

 

 FIFA(国際サッカー連盟)のJ・S・ブラッター事務総長が、長沼健日本サッカー協会会長に宛てたものだ。

 

 概要は次のとおり。

 

〈FIFAに提出された1996年5月15日付の手紙の中で、韓国サッカー協会はFIFA理事会による要請があれば、上記イベントの共催の可能性について考える、と述べました。

 

 2002年FIFAワールドカップ共催についての、貴協会の見解をお知らせ下さいますようお願い致します〉

 

 この手紙が日本の招致委員会関係者が詰めるホテルに届いたのは5月30日の午後2時半頃(スイス・チューリヒ市の現地時間)。日本か韓国かーー。2002年ワールドカップ開催地が決定するのは6月1日のFIFA理事会においてだが、その前日の31日には共催の可能性について話し合われるこたになっていた。

 

 実はこの手紙が届く少し前にブラッター事務総長は電話で岡野俊一郎実行委員長に先の手紙と同趣旨の打診をしている。それを見た衛藤征士郎日本招致議員連盟事務総長(元防衛長官長)が「そんな大事なことを口頭で決めてはダメ。文書にして持ってこさせなさい」と咎めたのだが、この電話で事実上、共催は決定したと考えていいだろう。

 

 30日の午後、宮沢喜一連盟会長をはじめとする招致委員会関係者が詰めたホテルの一室は重苦しい雰囲気に包まれた。衛藤事務総長が語る。

 

「FIFAに“共催”というルールはないのだから、乱暴きわまりない話ですよ。しかしわれわれが抗議した場合、日本だけ孤立する可能性がある。そこで単独開催票に持ち込んだところで

ヨーロッパの8票、アフリカの3票、それに韓国票が1票加わると、10対12で負けてしまうんです。心情的には全員、(共催に)反対だが、苦渋の選択をしてここは判断するしかないと。韓国が“FIFAの指示に従います”と言っていてるのに、われわれが突っぱねるわけにはいかないでしょう」

 

 翌朝、岡野実行委員長はFIFAハウスに赴き、ジョアン・アベランジェ会長あての返信をブラッター事務総長に手渡した。概要はこうだ。

 

<FIFA事務総長ブラッター氏の要請に応え、FIFAが望むのであれば、われわれは共催の可能性について考慮します>

 

 しかし、この時点でまだ日本は完全に単独開催を諦めたわけではない。それが証拠にアベランジェ会長に宛てた手紙では“consider”(考慮)という単語を用いている。本気で共催を受け入れる気があったなら“accept”としていただろう。日本は“風神”を期待し、6期22年もの長きにわたってFIFAに君臨し続ける親日派の独裁者(アベランジェ会長)の剛腕に、一縷の望みを託したのである。

 

 しかし、“風神”は吹かなかった。それどころか、日本からの返信をよりどころに、理事会で「共催」の口火を切ったのは、ほかでもないアベランジェ会長自身だった。

 

 韓国より4年も先に立候補しながら、情報戦で後れをとり、一矢も報いることなく日本は進退窮まった。しかも後見人のアベランジェ会長に引導を渡されたとあっては、いったい何のための招致活動だったのか。この“敗北に限りなく近いドロー”の顚末を通して見えてくるものは招致委員会の戦術の未熟さや交渉の稚拙さばかりではない。端的に言えば“敗因”はワールドカップを開催するにあたっての「理念」や「哲学」を持ち得なかったことに尽きるのではないだろうか。

 

(中編につづく)


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