「過去」は変えられる。だから「今」を勝つ!(井岡一翔)<後編>
<この原稿は『第三文明』2012年10月号に掲載されたものです>
二宮清純: 中学校時代にボクシングを始めてから、辞めようと思ったことはないですか?
井岡一翔: それはないですね。
二宮: ボクシング以上に興味を持てるものもなかったと?
井岡: はい。何の根拠もなかったですが、世界チャンピオンになりたいとはずっと思っていました。
二宮: これから階級を上げて、25歳、30歳と、こんなボクサーになりたいというプランは描いていますか?
井岡: 今後について年齢で区切って考えたことはないですね。今は一戦でも早く2階級制覇して、タイミングを見計らって3階級、4階級制覇を達成する。それから自分にとってベストの階級で防衛を重ねることが目標です。その上で自分の強さに満足したら辞めます。現時点では30歳までやるつもりはありません。あと5年くらいが勝負だと……。
二宮: 「自分の強さに満足したら辞める」というのは、かなり高い理想だと思います。単にKOで勝てばいいというものでもない。自分だけにしか判断できない世界ですね。強さに満足できる具体的な基準はあるのでしょうか?
井岡: たとえば、どんな状況でも自分の駆け引きどおりにうまく試合を進められたり、自分が当てたパンチが100%に近いタイミングで当たったり、狙っていたパンチで相手を倒したり……。そういったところがすべて組み合わさった強さですね。
二宮: そこまで強くなったら、もっと試合がしたくなるのでは?
井岡: いや、自分の強さに満足したら、それ以上、伸びないと思っています。試合内容うんぬんよりも、自分自身がそう思った時点で成長が止まる。そうなるとボクシングを続けている楽しみがなくなりますから。
二宮: 井岡選手の同年代にはサッカーの香川真司選手や、野球の田中将大投手、斎藤佑樹投手など、トップクラスで活躍しているアスリートが多い。先日、斎藤投手にインタビューしたところ、彼は「最強のピッチャーになりたい」と話していました。井岡選手の考える最強のボクサーとは?
井岡: 結果として負けない、ということですね。ただ、僕は「最強を目指す」という考え方ではありません。単純に「今よりも強くなりたい」という気持ちだけでずっとやってきています。
今はまだ、基礎ができた段階
二宮: さらなる強さを求めて、往年の名ボクサーを参考にすることはありますか?
井岡: 好きな選手のビデオは見ますね。軽量級だったら、たとえばリカルド・ロペス(WBCミニマム級王座を22度に渡って防衛し、無敗のまま引退)とか。
二宮: 私も、彼の現役時代の試合を見ましたが、こんなすごいボクサーがいるのかとビックリしましたね。体は華奢で強そうには見えないのに、パンチはすべてが的確で、相手を歯牙にもかけなかった。もし、タイムスリップして彼と戦うとしたら、どう攻めますか?
井岡: まったく戦える自信がないですね。実際にやることになったら負けたくないという気持ちが出てくるかもしれませんが……。
二宮: そこまで感じてしまうロペスのすごさは、どこにあるのでしょう?
井岡: ボクシングもすごいですが、彼の人生そのものが完全主義者なところですね。自分が決めたことは必ずやり通す。そして、考えがブレない。他人とはもともと能力が違うボクサーように見られていますが、それは徹底して陰で努力してきたからじゃないでしょうか。
二宮: ブレないという点では井岡選手も同じだと思いますよ。自分の性格を自己分析すると?
井岡: 何より負けず嫌いですね。ボクシング以外のことは能力的に敵わないことがあるかもしれないけど、ボクシングは自分が輝ける場所だから、そこでは絶対に負けたくない。
二宮: もし、井岡一翔というボクサーがもうひとりいたとしたら、どう戦いますか?
井岡: 決着がつかず、ドローになりそうですね。特別、自信があるわけじゃないですが、全体的にバランスのいいボクサーにはなってきているとは思います。ただ、まだまだ歯がゆいことも多いですね。
二宮: 自分の理想形にはまだ程遠いと?
井岡: やっと土台が備わってきたな、という感じです。
二宮: 城でいえば、まずは城壁が完成したといったイメージでしょうか。天守閣ができるのは、5、6年後くらいですか?
井岡: 理想に到達するには、あまり残り時間はないので、急がなきゃいけないという気持ちは持っていますね。
自分がやってきたことしか信じられない
二宮: 井岡選手は、プロでは負け知らずですが、アマチュア時代には負けもありました。一番悔しかった試合は、どの試合ですか。
井岡: これはいつも言っていることですが、「一番悔しい」ということはありません。負けた試合はどの試合も悔しいし、勝った試合はどの試合もうれしい。一試合一試合にいろんなことが詰まっています。だからこそ、負けて学ぶこともあるのではないでしょうか。
二宮: 大学時代は北京五輪を目指していましたが、全日本選手権の決勝で僅差の判定負けを喫し、五輪出場の夢が断たれました。それがきっかけでプロ転向を決断したわけですね。
井岡: 確かに五輪に行けなかったという点では、全日本選手権の負けは大きかったです。だけど、その悔しさを引きずって忘れずに戦ってきたからこそ、今があると思うし、また、そうしないといけないと思います。もし負けるようなことがあれば、それは過去の敗戦の悔しさや涙を忘れていることになってしまう。勝つことによって自分の過去を変えなきゃいけない。
二宮: 普通、「未来は変えられるけど、過去は変えられない」と言います。でも、井岡選手の考えでは「過去を変えられる」と?
井岡: もし、周りの人たちが「あの時の負けがあるからこそ、今の井岡がある」と言ってくれるのであれば、それは過去が変わったことになるのではないでしょうか。負けたつらい過去が輝く大切な過去になる。逆に、「あの時に負けていなかったら、井岡はもっといいところまで行けていたはずなのに」と言われるようであれば、それは、ただの惨めな負けです。
たとえ、あの時、僕が試合に勝って五輪に行けたとしても、その後、世界チャンピオンになっていなかったら、今度は「あの時は良かったのに」と言われますよね。良かったはずの過去がそうではなくなります。だから過去は今の自分によって変わっていくと感じるんです。
二宮: 「過去は変えられる」。これは名言ですね。スポーツは勝つか負けるかで、人生が大きく変わってくる世界です。試合前に「もし、負けたら……」と悪い想像が頭をもたげることはありませんか。
井岡: 負けは怖いですよ。不安もあるけど、そこまで来たらやるしかないじゃないですか。セコンドがいて、サポートしてくれる人たちがいても、リングに上がるのは自分一人。だれも助けてくれないですから。自分がやってきたことしか信じられない。だから、やるしかない。
二宮: そこまで覚悟を決められるのが、井岡選手の強さの秘密なのかもしれませんね。
井岡: やっぱり負けるということは格好悪いし、恥だと思うんです。自分自身、勝って注目されたいし、勘違いしてはいけないですが、常に格好良くありたい。これがまだアマチュア時代なら、負けて悔しいのは自分自身と応援してくれている身内だけですが、プロの華やかな世界では、負けるとたくさんのファンが悔しい思いをします。その意味でも僕はこれからも勝ち続けなきゃいけない。このことは強く心に誓って、一日一日を過ごしています。