日本中に衝撃が走った。7月30日、歴史的名馬のディープインパクトは頚椎骨折のため、安楽死の処置が取られた。ディープインパクトは2004年にデビューし、翌年の皐月賞、日本ダービー、菊花賞を無敗のままで制覇。G1レースで通算7勝をあげた。06年の有馬記念を最後に引退。多くの競馬ファンはディープインパクトの力強くも美しい走りに酔いしれたものだ。その名馬が引退した際、寄せた原稿がある。ディープインパクトの雄姿を思い返しながら今一度、読み返そう。

 

<この原稿は2006年12月発売の『GOOD-BYE Deep Impact』に掲載されたものです>

 

 今年ほどヒーローの引退が相次いだ年はないんじゃないでしょうか。

 

 サッカーのドイツW杯期間中、日本代表MFの中田英寿が突然、引退を発表しました。「代表を引退するのではないか」という話は耳にしていたのですが、まさか現役まで引退してしまうとは……。これには驚きました。

 

 プロ野球では北海道日本ハムファイターズの新庄剛志がレギュラーシーズンが始まったばかりの4月末、今シーズン限りの引退を表明しました。

 

 でも今にして思えば、あの引退表明がファイターズの44年ぶりの日本一につながったのです。新庄見たさに観客が集まる。選手は発奮する。道民パワーがいかに強力だったかは、プレーオフ、日本シリーズを通じて札幌ドームでファイターズが5戦全勝だったことでも明らかでしょう。

 

 このようにヒーローが次々と引退していくなかで、大トリとなったのが、ディープインパクトです。「凱旋門賞」の後、種牡馬入りが発表され、武豊が「言葉が見つからない」と言ったくらいですから、本当に寝耳に水だったんでしょうね。

 

 ファンとしては、ぜひもう一度「凱旋門賞」にチャレンジして欲しかった。禁止薬物使用と引退の関係についてははっきりしませんが、あんなことがあったので、余計「凱旋門賞」に再チャレンジしてもらいたかった。パリの借りはパリで返す――。こんな物語を期待していたんですけどね。

 

 長いこと競馬を見ていますが、客観的に見て「史上最強馬」はディープインパクトをおいて他にはいないでしょう。

 

 しかし馬を見ていると、まだまだ潜在能力が満開になっているようには思えないんですよね。5歳になる来年は、いったいどんなレースを見せてくれるのかと楽しみにしていたのですが、それを見られないのは何とも残念な話ですね。

 

 さつき賞のレースを見て、「あぁ、これでもう3冠は間違いないな」と確信しましたね。もう、モノが違っていましたよ。

 

 あのレース、スタートからつまづき、いきなり4馬身ほど出遅れたのですが、それすらハンディキャップにならなかった。

 

 いささか埃のかぶった表現で恐縮ですが、トップギアに切り替わると、他の馬が止まって見えてしまうんですね。それこそ「天馬」ですよ。走っているというよりも飛んでいるという感じ。

 

「あぁ、離陸しているなァ……」

 

 競馬場で、何度もそんなシーンを見ましたよ。相手が誰であろうと関係ない。自分のレースさえすれば勝てる。いや、多少、不本意なレースであっても、最後は力で解決してしまう。

 

 次元が違う――ひと言で言えば規格外の強さでしたね。

 

 ダービーも菊花賞も、勝つことは最初からわかっていました。馬券的には私は中穴狙いで、どちらかというとガチガチの本命は好きではないんです。

 

 だからシンボリルドルフなんて一回も買ったことがない。スポーツでも「パーフェクトなプレーヤー」にはあまり興味がないんです。

 

 いや、興味がないというよりも近寄り難いんですね。「今度、ごはんでも食べようか?」って声かけにくいでしょう。シンボリルドルフが人間だったら、そんなタイプだったんじゃないでしょうか。もちろん、尊敬していますけどね。

 

 一方、ディープの場合は、仮にこの馬が人間だったとしても、気楽に付き合えそうな気がするんですね。プレッシャーに強く、性格もしっかりしているから、こちら側も誘いやすい。

 

 野球選手にたとえていえば、60億円の移籍金でレッドソックス入りが事実上、決定した松坂大輔かな。大舞台にあれだけ映えるヒーローはいない。何しろ彼はシドニー五輪以来、野球の国際的な大舞台のマウンドには全て上がっているのですから。

 

 それでいて彼は庶民的でしょう。「孤高」のイメージがない。あくまでも直感ですが、ディープインパクトも、そんなタイプじゃないかと思うんですよね。

 

 菊花賞なんて単勝支持率79.3パーセントですよ。払い戻しは100円の元返し。これじゃ馬券は“お守り”にしかならない。

 

 それでも買ってしまうファン心理は、ある意味、高知競馬のハルウララの時と共通していると思うんです。つまり、もう勝ち負けじゃないんですよ。

 

 自分がその場所にいたという証――つまり多くのファンがディープと同じ時間を過ごし、同じ空気を吸っていることをかたちにとどめたいと考えているんです。

 

 オグリキャップにもそういうところがありましたが、ディープには演歌的な情念がない。競馬に人生を投影する人は少なくありませんが、オグリが「オレがついているからね」なら、ディープは「オレがいなくても大丈夫だろう」でしょうかね。出遅れたって、ぶっちぎりで勝つんだから、こっちは左ウチワですよ。あとはどんな勝ち方をしてくれるか。読後感のいい小説のような“心の財産”をディープは私たちにたくさんもたらせてくれましたよ。

 

 残念な結果に終わりましたが、「凱旋門賞」も「敗れてなお強し」という印象を残しましたね。あのメンバーでジャパンカップを走ったら、勝つのは間違いなくディープですよ。

 

 スポーツを取材していると、アウェーで勝つことがいかに難しいか、よくわかります。それこそホストカントリーの陣営は命がけできますからね。2回ほどヨーロッパで競馬を見たことがありますが、ヨーロッパではレジャーとしてではなく文化として競馬が根付いている。アウェーサイドに立てば“文化の壁”を突き崩すのは容易ではないんです。

 

 まして一番人気を背負ったわけでしょう。ディープ陣営のプレッシャーは口に出せないほど重く、大きいものがあったと思いますよ。

 

 バレーボールなんて見てください。大きな大会のほとんどは日本でやっているのに、それでも勝てないんですから。文化を力にかえたいのならタレントなんて使わず、試合前に歌舞伎か能でもやった方がいいですよ。「日本のバレーとは何か?」ということを少しは選手も真剣に考えるようになるんじゃないかな。

 

 話を戻しましょう。ディープの引退を撤回させることはできませんが、「3着」そして「失格」という「パリの悲劇」はディープがこの国の競馬界に残した最大の遺産といえるかもしれませんね。

 

 日本の競馬は何が足りなかったか、どうすれば勝てるか――ディープの残した宿題に全力をあげて取り組む決意。それを引退する名馬への花向けにしたいものです。


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