27年間、破られなかった走り幅跳びの日本記録が17日、アスリート・ナイト・ゲームズ・イン福井で2度も破られた。1992年に森長正樹が出した従来の記録8メートル25を橋岡優輝(日大)が1回目で7センチ上回った。さらにその30分後には城山正太郎(ゼンリン)が3回目のジャンプで8メートル40を記録した。ジャンパーたちは1ミリでも記録を伸ばすために神経を研ぎ澄ませる。19年前、かつての日本記録保持者の森長に話を訊いた。ジャンパーは何を考え、何と戦いながら記録を伸ばそうとするのか――。

 

 <この原稿は2000年発売号『Number』(文藝春秋)に掲載されたものです>

 

 左足を前に置き、右足のツマ先をピンと立てる。視線を前方に送り、しばらく静止の状態を保つ。数秒後、腰を低く沈め、スタート。徐々に加速をつけていき、勢いよく踏み切ると同時に全身を宙に放り出す。

 

 8メートル34。

 

 追い風参考(3メートル)ながら、自らが保持する日本記録8メートル25を超えた瞬間、競技場はどよめきと歓声に包まれた。

 

 6月24日、静岡・草薙陸上競技場。

 追い風参考とはいえ、先の記録は今季に限っていえばキューバのイアン・ペドロソに次いで世界2位。森長正樹は復活を強烈に印象付けるとともに、シドニー五輪でのメダル獲りをもアピールした。

 

 森長が日本記録8メートル25の大ジャンプを披露したのは、今から8年前のこと。バルセロナ五輪代表選考会を兼ねた静岡国際陸上で、13年ぶりに日本記録を更新してみせたのだ。うれしさのあまり、森長はカメラマンの前でバック転を演じたりもした。

 

「でも今思うと、あの記録はいろいろな偶然が重なって出たと思うんです。言ってみれば体力と勢いだけで跳んでいた。僕が言うのも変ですが、あの頃の本当の実力は8メートル5か10センチ前後だったと思っています」

 

 落ち着いた口ぶりで、森長は8年前を振り返った。

 

 しかし、期待されたバルセロナ五輪は予選落ち。その4年後のアトランタ五輪も腰の負傷が原因で不完全燃焼に終わった。

 

「日本記録を出してからというもの、ずっと自らのプライドと戦ってきたような気がします」

 

 おもむろに森長は語り始めた。

 

「精神的に追い込まれた状態が、随分、長く続きました。“日本記録保持者、8メートル25”と紹介されると、どうしても意識してしまう。その頃、実際に僕が跳べるのは7メートル60か70くらいなのに……」

 

 最初は僕の記録を聞いて期待してくれた観客も、僕が跳ぶたびにハーッというため息にかわる。これはズシンときますよ。勝っても7メートル70~80の記録じゃ誰も納得してくれない。それよりも、僕自身、不甲斐ない思いでいっぱいでしたね。

 

 まぁ、今になって考えれば神様が僕に与えた試練だったんでしょうが、当時はそうは思えなかった。なぜ神様はここまで僕に意地悪するんだろうと。

 

 プライドを捨てよう、もう捨てなければならないとは思っていても、なかなかそうはできない。ものすごくしんどい時期でしたね」

 

 森長がスランプにあえいでいる時期に、めきめき力をつけてきたのがスプリンターであり、走り幅跳びの選手でもある朝原宣治である。

 

 森長に焦りはなかったのか?

「ウーン、複雑な思いがありましたね。日本記録は抜かれたくないけど、ここで抜かれた方がむしろスッキリするかなと。確かに日本記録保持者は僕だけど、実力は彼が一番だと。朝原君をライバル視するというより、ふたりで世界に挑みたいという意識の方が強かった。過去のプライドを引きずってウジウジしても仕方ないですからね」

 

 転機はアトランタ五輪だった。2大会連続で予選落ちした森長に、もはや失うものは何もなかった。

 

「それからですね。残っていたプライドをかなぐり捨て、チャレンジャーとして再出発しよう。はっきり、そう意識するようになったのは……」

 

 といって、急に記録が伸びるわけではない。試合に出る。7メートル60。これまでなら「おかしい。なぜなんだろう……」と頭を抱えていた。それを「自分の力は7メートル50なんだから、10センチも記録が伸びたじゃないか。よし、この調子でまた次も頑張ろう」と無理にでも思うようにしたのだ。

 

「考え方をかえただけで、随分、肩の荷がおりました。これは大きな発見でしたね。

 

 たとえば練習方法。調子がいい時は、今の自分に何が必要かすべてわかるので焦りもない。“今日はこれをしよう”“ひとつずつなおしていけば1週間後にはこうなるだろう”と冷静に練習を組み立てることができる。

 

 ところが、スランプの真っただ中にいると、あれもなおさなきゃ、これもなおさなきゃ、と焦りだけが増幅してしまう。あれもやろう、これもやろうと、あらゆることに手をつけるから、逆にすべてが中途半端に終わってしまう。となると、徒労感しか得られない。

 

 精神的にも、随分、追いつめられましたね。悩みは考えれば考えるほど深くなっていくものなんです。そう、どツボに入ってしまうという感じ。そこで、練習で解決しようとすると、それがオーバートレーニングにつながり、ケガを誘発する。

 

 しかし、アトランタが終わり、プライドを捨ててから、心に余裕が持てるようになってきた。休む勇気とでもいうのかな。これまでは1日休むと、これまで積み上げてきたものがすべて失われるんじゃないかという恐怖心にさいなまれたのですが、それもなくなった。今日できなかったことは明日すればいいか、と思うとラクじゃないですか。心に余裕がないと、何をやってもカラ回りするだけですから……」

 

 栄光と挫折、そして再出発。

 

 日本記録からの濃密な8年を淡々と振り返る28歳に、ささやかな自尊心がにじんでいた。

 

(後編に続く)


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