重大なミスを犯した選手を監督が殴ったとする。これって、パワハラだろうか。

 

 違う、とわたしは思う。

 

 暴力は、“ハラスメント=嫌がらせ”なんて言葉で片づけられるものではない。当事者がどんな理屈を並べようが、恐怖による支配は指導者によるスポーツの破壊行為である。殴られる側が学生だったりする場合は、特に。

 

 そもそも、ハラスメントとは「やられた側が強い、あるいは凄まじい不快感を覚え、やった側はちっぽけな自己満足を味わうだけ」の行為だとわたしは認識している。それによって何かが生み出されることもない。つまりは、まったくの不毛であり非生産的な行為。ゆえに世界中でハラスメントは非難される。

 

 では、重大なミスを犯したプロの選手を、プロの監督が厳しく叱責したとする。言われた側が立ち直れないぐらいの激しい罵声を浴びせたとする。これって、パワハラだろうか。

 

 これも違う、とわたしは思う。

 

 マラソンの有森裕子さんは「わたしがやっているのはライス・スポーツですから」とおっしゃっていたことがあるという。一般的な市民が楽しむのが“ライフ・スポーツ”だとしたら、プロ・ランナーの自分がやっているのは、コメのため、食べるためのスポーツなのだ、と。

 

 Jリーグは、もちろんプロスポーツである。監督という立場にある人間は、自分の食い扶持だけでなく、選手やスタッフの未来に対しても大きな責任を負っている。クラブはひとりの監督によって成り立っているわけではないが、しかし、クラブの構成員の中ではもっとも大きな責任を背負っているのも間違いない。

 

 そんな立場にある人間の罵声は、なるほど、飛ばされた側に強烈な不快感を与えただろう。だが、飛ばした側はちっぽけな自己満足を満たすためにやったのか?

 

 違う。勝つためだ。あるいは、勝つ可能性を高めるためだ。

 

 監督が選手やスタッフを叱責する行為がパワハラだというのであれば、02年の日本代表監督だったフィリップ・トルシエはパワハラの王様だった。いや、彼の場合は時に選手を突き飛ばしたりもしたから、パワハラの域をも超えていた。

 

 時代が違う? ならば、4年前のラグビー日本代表を率いたエディー・ジョーンズはどうか。彼も、選手やスタッフに相当な精神的負担を感じさせるタイプの指導者だった。

 

 では、トルシエやエディーのやり方は、パワハラだと非難されただろうか。やり方がけしからんと、謹慎を強いられただろうか。

 

 02年のトルシエも、15年のエディーも、率いていたのは言ってみれば平幕のチームだった。横綱や大関を倒すためには、強豪がやらないところまで選手を追い詰めなければならなかったのだろう。個人的には好きなやり方ではないが、しかし、その背景は理解できる。すべては勝つための手段であって、断じて個人的な自己満足のためではなかった、ということも。

 

 なので問いたい。ベルマーレで曺貴裁監督がやったことは、パワハラだったのか。彼は、ちっぽけな自己満足のために、周囲を委縮させていたのか、と。

 

<この原稿は19年8月29日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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