(写真:会場の看板前にて。ボクシングの大会でUWFをやる実感がわいた)

「オリンピック・パラリンピックが延期となって残念だけど、今年はワシのデビュー30周年だから寂しくないぞ!」

 僕は、少し照れながら息子に記念イヤーであることを猛烈にアピールしたのだった。

 

 あの伝説のUWFでデビューしたのは、1990年の8月13日。驚くなかれ会場は横浜アリーナだった。デビュー戦が横アリなんて、普通ならオリンピック出場ぐらいの実績がないと無理だろう。ちなみに初勝利の会場は、大阪城ホールという、これまた大会場だった。

 

 当時のUWFは、大会ごとに増刊号が出るほどの凄まじい人気で、ビッグマッチ興行が頻繁に行なわれていた。僕はその波に便乗してデビューしたラッキーボーイに過ぎなかったのだが、世の中そんなに甘くはない。デビューしたその年の暮れにUWFは崩壊。わずか4回しか試合に出場できなかったのである。

 

 憧れた団体が脆くも空中分解し、心に大きな傷を負ったが、練習生時代に前田日明さんや山崎一夫さんの付き人を経験したり、船木誠勝さんや鈴木みのるさん、安生洋二さん、田村潔司さんとスパーリングできたのは僕の大きな財産となった。真夜中に道場で行う中野龍雄さんの個別練習も僕の肥やしになっている。生活面では宮戸優光さんが、挨拶や言葉使いなど全般の指導をしてくださったのだが、怒られない日はなかった。気が短い方なので、口より早く手が出る。そう言えば、ちゃんこ番をやっている時、包丁で頭をしばかれたこともあった。あれにはヒヤッとしたなぁ。

 

 あの厳しい環境に耐えられたのは、冨宅飛駈や長井満也という同期生がいたおかげだ。もし一人だったら間違いなくノイローゼになっていただろう。

 今振り返ると70kgにも満たないヒョロヒョロの17歳のガキが、潰されずによく生き残れたなと我ことながら感心する。

 

 新生UWF解散後は、18歳という若さで団体の設立メンバーに加わることになる。

 高田延彦さんを代表に「最強」を掲げたUWFインターナショナルだ。

 立ち上げ当初は、スポンサーもついていない、まさにゼロからのスタートだったので、不動産屋を回り、事務所探しからの厳しい船出だった。ちなみに当時、東京の狛江市にあったUインターの事務所は、僕と田村さんで見つけてきたのである。

 

 選手やスタッフが一丸となって迎えた旗揚げ戦で、僕は足を骨折するというポカをやらかしたが、ピンチをチャンスに変えるべく、そこから掌底を必死に練習したのを思い出す。後に掌底攻撃が僕の代名詞的な技となった。今になって思うとケガしたことにも大きな意味があったのだ。

 

 Uインターは自由度の高い団体だったので、いろんな挑戦ができた。

 特に印象に残っているのは、テネシー州ナッシュビルでの武者修行だ。数カ月間と短期ではあったが、連日ビル・ロビンソン先生のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンをマンツーマンに近い形で教わることができた。レスリングをベースに複合的なムーブから関節技へと入るテクニックが素晴らしかった。もっと死にもの狂いで学んでいたらと悔やまれる。

 

(写真:ボクシングの師匠とのスパーリング風景)

 ロビンソン教室はボクシングジムを間借りしていたこともあって、空いている時間にはボクシングの練習もやらせてもらっていた。ポリスマンの黒人ボクサーがコーチをしてくれたのだが、スパーリングをやると僕のパンチがかすりもしなかった。恐ろしく強かったなぁ。

 このボクシング特訓が、その後思わぬ展開をみせることになる。

 

 僕は、ジムのオーナーにボクシング興行の中で、UWFの試合ができないかと直談判したのだ。かなり大胆な行動ではあるが、若さゆえに遠慮せず突っ走ったのが逆に良かったのかもしれない。とんとん拍子に事が運び、なんとナッシュビルにある数千人は入る会場でのビッグマッチで試合をやらせてもらえることになった。

 

 これを受けて、日本から宮戸さんや安生さん、フロントの鈴木健氏までもがアメリカに偵察にやって来たのだ。Uインターの海外進出の足掛かりにとそれはもう鼻息が荒かった。

 

 ちなみに対戦相手は、高角度のジャーマンスープレックスの使い手であるジーン・ライディックさんだ。スプリングの利いていないボクシングの硬いリングで、それをやられたのだから、ダメージはハンパなかった。マジで頭が割れるかと思った(苦笑)。

 

(写真:1993年6月、ナッシュビルで行なわれた大会のポスター)

 しかし、体のことを心配するより、本場アメリカのボクシングファンの前で、UWFのファイトを披露できた喜びの方が上回った。あの興奮と充実感は言葉では表せない。若いうちは無謀なチャレンジはするものである。

 

 Uインターの終盤には、新日本プロレスなど既存のプロレス団体とまさかの対抗戦に突入。

 自分が東京ドームという大舞台で、佐々木健介さんや長州力さんと対戦するなどUWF入門時には夢にも思わなかった。人生は本当にわからないものだ。もちろん、良いことばかりではなく、この対抗戦で眼下底骨折をし、その後遺症で今も右上は焦点が合わない。

 

 現役中は常にケガとの闘いだった。全日本プロレス時代は特に体の大きな外国人選手との対戦が多く、膝や肩、首などボロボロの状態で試合に臨んでいた。しかし、子どもの頃にテレビで観ていたスタン・ハンセンさんやジャイアント馬場さんと対戦できたことは、大きな喜びであった。僕はこのことを、プロレス好きの年配者に会うたびに自慢している。

 

 入門から数え17年のレスラー人生を振り返ると度重なる団体の崩壊とケガに泣かされ、チャンスをものにできなかった忸怩たる思いがある。

 しかし、その残念な想いを抱えているからこそ、47歳になった今もトレーニングを続け、年に数回ではあるがリングに上がり続けているのだろう。

 

 がんになったことで、再びマット界に引き戻されたのは運命だったのかもしれない。やはりプロレスの神様はいるのだと思う。

 

(写真:ボクシングのリング上で奇跡のUWFの試合)

 現在、選手としてだけでなく、森のプロレスなどプロモーターとしての活動も行なっているが、これがとても良い勉強になっている。プロモートする側に立つと選手時代には見えなかった景色が見られて改めてプロレスの奥深さを感じる。

 

 考えてみると僕は、前田さんのUWFや馬場さんの全日本プロレス、猪木さんの新日本プロレスとその全てに入団した唯一の選手である。良い悪いは別にして、オンリーワンな経験をさせてもらった。これにはきっと何か意味があるはずだ。その答えを見つけるまでは、プロレスの旅を続けていくべきなのだと思う。もちろん、あくまでも本業は虫のプロレスである『クワレス』だ。

 

 二宮清純氏とのご縁で誕生したこの『クワレス』を世間が注目する面白い存在にするためにも今回でこちらのコラムを卒業させてもらうことになった。

 2006年4月から丸14年もの長きに渡って『マル秘ファイター列伝』の連載をさせていただけたことは感謝しかない。拙い僕の文章を辛抱強く読んでくださった皆様にも心からお礼を申し上げたい。長い間、ご愛読いただき、本当にありがとうございました。


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