(写真:引退試合当日、後楽園ホールにて)

「一番仲の良いプロレスラーは誰ですか?」

 この質問に僕は、考えることなく、すぐさま中西学選手と答える。

 UWF系の選手の名前が出ると思っている方には少々驚かれる。

 確かに僕はレスリング出身者でも新日本プロレス生え抜きの選手でもない。

 

 中西さんはレスリングでオリンピック出場を果たしたエリートレスラーだ。

 パワーファイターの中西さんと格闘スタイルでジュニアヘビー級の僕とでは、ファイトスタイルからして水と油だ。意外に思われるのも当然だろう。

 

 中西さんとの接点は僕が新日本プロレスに入団してからなので17年前になる。

 初対面は、新日本での合同練習だったと記憶しているが、第一印象はゴツイの一言!

 

 日本人離れしたヘラクレスのような肉体に度肝を抜かれたのを今でもはっきり覚えている。しかし、見た目に反し、繊細で気遣いの人であることを後々知る。そのギャップに誰もが中西さんのファンになるのだ。もちろん僕も例外ではない。

 

 現役時代は、中西さんから食事によく誘ってもらった。巡業中には僕だけでなく、数名の選手やスタッフを集めて行われる通称「中西会」が楽しかった。長いシリーズで肉体的にも精神的にも疲れた頃に気を利かせて会を開いてくれるのだ。「不器用に生きている奴らをほっとけん」。少しお酒が入ると中西さんの口からそんな本音が出ることもあった。

 

 僕は新日本に移籍してから、階級を落とし、IWGPジュニアのベルトに何度も挑戦したものの良い結果を生み出すことができなかった。思うように行かず、もがき苦しんでいる時に声をかけてもらい、本当に有難かった。しかし、中西さんもまた人知れず苦悩していたと思われる。

 

 恵まれた体格と輝かしいレスリングの実績を併せ持ちながらも新日本プロレスの頂点であるIWGPのベルトをこの時まだ手にすることができていなかったのだ。次々と後輩がベルトを巻く姿を見るのはつらかったと思う。だからこそ、僕をはじめ不器用な選手たちの気持ちを誰よりも理解し、気遣ってくれたのかもしれない。

 

 自分のことを差し置いても他人に目を向け、サポートできる中西さんは、体だけでなく心もデッカイ人なのだ。

 

 そんな人情味あふれる中西さんをファンが応援しないわけはない。

 2009年に後楽園ホールでIWGPヘビー級王座のベルトを初戴冠した時の盛り上がりが何よりの証拠だろう。必殺の『大☆中西ジャーマン』が決まってカウントが3つ入った時、割れんばかりの大歓声が会場を包み、あの山本小鉄さんでさえ涙していた。

 

 この大会の時、僕はすでに引退していたが、IWGPの実行委員として、中西さんに認定書を読み、ベルトを手渡す大役をやらせてもらった。当時、僕はジュニアヘビー級のタイトルマッチの担当だったのだが、不思議とこの日だけはヘビー級も任された。

 中西さんの記念すべき日に自分も関われたことが嬉しくてたまらなかった。一方的ではあるが強い絆を感じている。

 

 ただ、長年の夢であったベルトを手にしたものの、わずか2カ月弱という短期政権で終わってしまったのは残念であった。そこから低迷が続き、2011年には、なんと試合中に首に大ケガを負ってしまったのだ。

 

 僕自身、首のケガが原因で引退しただけにその情報を聞いた時には真っ青になった。

「携帯も持てへんから、いま看護師の方に持ってもらいながら、しゃべっている」

 電話越しにも危険な状況なのが手に取るように伝わってきた。

 僕も引退する前は首の状態が酷い状態ではあったが、ここまで深刻ではなかった。

 

 首には体を動かす大切な神経が集中している。一生、寝たきりや車いす生活を余儀なくされる可能性だってあるだけに心配だった。僕は今の状態が一時的であることを祈り続けた。

 少し状況が落ち着いた頃、お見舞いに行ったのだが、こんな状況の時でさえ気を遣わせないようにする中西さんがいた。

 

「カッキー、いつも悪いな。病院の食堂に行って飯でも食おうや」

 僕に心配をかけまいといつもと同じように明るく振る舞う姿に胸が締め付けられた。

 

 しかし、ここからが野人・中西学の真骨頂だった。

 その後、お見舞いに行くたびに落ちていた筋肉がみるみる復活していったのだ。

「暇やからリハビリするしかやることがあらへんからな」

 

 こんな頑張り屋さんを神様は見捨てるわけはない。

「カッキー、外出の許可をもらったから近日中に道場に行くつもりや」

 僕は我が耳を疑った。いくらなんでもまだ早いのでは……。

 

 実際、道場では車いすから降りて、リングシューズを履き、ロープを手で持ちながらリング上を歩くことで精いっぱいであった。しかし、ここで体中の細胞が覚醒したと思われる。

 やはりレスラーにとってのパワースポットは道場なのだ。そして、リングシューズを履くという行為が復帰に向けての原動力となったことは間違いない。

 

 長い時間はかかったが、厳しいリハビリとトレーニングを続けた結果、奇跡の復活劇を果たした時は自分のことのように嬉しかった。本当に根性の人である。しかし、やはり首のケガが致命傷となり、思うようなファイトができないという理由で中西さんは引退を決意した。

 

「引退するなんて信じられん」。僕は酷く落ち込んだ。

 2月22日に行われた中西さんの引退試合だが、僕は新型コロナウイルス問題を理由に観戦を見送った。正直に言うと……引退のテンカウントを聴きたくなかったからだ。

 つまり、僕にとって超人レスラーである中西さんの終わりを認めたくなかったのである。

 

 引退当日、僕は会場となる後楽園ホールに足を運び中西さんのもとを訪れた。

 数時間後に引退試合が待っているというのにいつもと変わらない中西節の連発で僕を笑わせてくれた。相変わらず気遣いの人である。

 

 夜中、僕の代わりに試合を見届けた娘からメールが入った。

「私は、感極まって入場から泣きっぱなしだったよ。試合内容は引退する選手だとは思えないほど終始最高だった。引退セレモニーでの中西さんのメッセージが、びっくりするほど謙虚な言葉ばかりで、ホント心が綺麗な人だなと思った」

 

 娘の感想を目にしても僕は中西さんの引退を認めない。

 だから僕の中では中西さんは一生現役レスラーなのだ。

 いつの日か『森のプロレス』のリングで、文字通り野人のように暴れまわる中西さんを演出できたらと本気で思っている。フォーエバー中西学!

 

(このコーナーは毎月第4金曜日に更新します)


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