近年、よく「アンガーマネジメント」という言葉を耳にする。要するに怒りの感情と、どう上手に付き合うか。そのための心理的トレーニングを指す。

 

 

 だが言うは易し、行うは難し――。人間、そう簡単にふつふつとわき上がってくる怒りの感情を制御できるものではない。

 

 スポーツの世界においては、怒りにまかせてベンチを蹴り上げた野球の監督やラケットを放り投げたテニス選手を何人も知っている。そこに人間臭さを感じてしまうこともある。

 

 もし取材する機会があったら、彼に訊いてみたい。「理不尽な得点によりわいてきた怒りの感情を、どうやってコントロールしたのですか?」と。

 

 北京冬季五輪。スノーボード男子ハーフパイプで平野歩夢が金メダルを獲得した。2014年ソチ大会、18年平昌大会ともにメダルの色は銀だったため、8年越しの悲願達成だ。

 

 ハーフパイプの決勝は、予選上位12人が、それぞれ3回の演技を行い、ベストスコアで争われる。

 

 2回目、舌を噛みそうなネーミングの大技「トリプルコーク1440(フォーティーン・フォーティ)」を含む“4回転”を3つ成功させた平野には高得点が出ると期待された。

 

 しかし得点はスコッティ・ジェームズ(オーストラリア)の92・50点を下回る91・75点。テレビ桟敷で「そりゃ、ないよ」とつぶやいたのは私だけではあるまい。

 

 ちなみに採点基準は①難易度、②完成度、③高さ、④多様性、⑤革新性と5つあり、ジャッジの主観で決定される。着地で転倒したり、バランスを崩して手をついたりすると減点の対象になる。

 

 なぜ不可解な点数がついたのか。専門家は「ジェームズの方が技のバリエーションが豊富だった」「(平野の)着地が少し乱れた」などと語っていたが、ストンと胸に落ちなかった。

 

 並みの選手なら、ジャッジに怒りが向き、自分をコントロールできなくなってしまうところだが、平野は違った。

 

「2本目は納得いってなかった。怒りがおさまらないまま3本目を迎えたけど、うまく集中できていた」

 

 怒りをマネジメントすることすら難しいのに、それをエネルギーに変えてしまうとは……。これはもう“メンタルの巨人”である。

 

 そして迎えた最後の3本目、平野はトリプルコーク1440を含むルーティンを完璧に滑り切り、96・00というハイスコアを叩き出した。どうだ見たか、と6人のジャッジを力でねじふせたような印象だ。

 

「3本目は怒りを表現できた」

 

 淡々とそう語る23歳には、既に王者の風格が漂っていた。

 

 試合後、感動的なシーンがあった。06年トリノ、10年バンクーバー、18年平昌と、五輪で3回王者になっている斯界のレジェンド、ショーン・ホワイト(米国)にハグされ、「ありがとう。君のことを誇りに思うよ」と告げられた。

 

 名実ともにハーフパイプはアユム・ヒラノの時代の幕明けである。

 

<この原稿は『サンデー毎日』2022年3月6日号に掲載されたものです>

 


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