運命の時――天野は落ち着いていた。前日もぐっすり眠れた。
「指名を受けなかったら、それはそれでしょうがない。運が悪かったと考えようと思っていましたね」
2001年11月19日、プロ野球ドラフト会議。四国学院大学4年生の天野は広島カープに10巡目で指名を受ける。四国六大学出身で初のプロ野球選手が誕生した瞬間だった。


「(ドラフトで)指名を受けた時は『来ちゃったよ』と他人事のような感じでした。『俺なんかでいいのかな』と思ったことを覚えています」

 大学時代は、四国六大学リーグで指折りのピッチャーとして知られた。最速144キロのストレートと多彩な変化球を武器に1年時に最優秀新人賞を獲得。通算30勝を挙げて、最優秀防御率4回、最多勝3回のタイトルを獲得し、母校を5度のリーグ優勝に導いた。プロ野球、社会人と様々なチームから注目を浴びる存在だった。

 だが、2001年5月、4年生の春に思いがけない故障に見舞われた。四国六大学の春季リーグ戦の高知大学戦、右足に打球が直撃した。右碑骨を折る大ケガで入院を余儀なくされた。
「プロ野球から何球団かスカウトの方がきていたのですが、『あんな大ケガをしたら、もうダメだろう』とあっさりといなくなった。カープのスカウトの方だけが『その骨折はすぐに治る。プロでも絶対に通用するよ』とグラウンドに足を運んでくれた。だから、指名された時は嬉しかったですね」

 ただ、指名を受けたものの、天野は迷っていた。プロに進まずに社会人野球に行くという選択肢も頭によぎった。
「『四国六大学リーグの僕なんかがプロで通用するのかな』と不安でした。プロで“太く短い”野球人生を送るよりも、社会人で“細く長く”プレーする方が自分には向いているんじゃないかと。だから、指名を受けてからカープのスカウトの方に訊いたことがあるんです。『四国の大学は全国的にみてレベルが低い。それでも、僕はプロで通用するんですか』と。向こうは『絶対に通用する』と言い切ってくれた」
 大学時代の監督にも同じ悩みをぶつけると「オマエ、考えてみぃ。プロ野球に行きたいと考えても、実際には行けない人間が何人いると思っとるんや。オマエはドラフトで指名を受けたんやで。他の選択肢はプロに行った後に考えればいい」と諭された。
 周りは自らの背中を押す。考え抜いた末、天野はカープ入団を決意した。

<中継ぎの魅力>

 プロに入ってみると大学時代との違いを肌で感じた。練習の時間は短いが、意図が明確で質が驚くほど上がった。食事に関しても、寮で栄養バランスを考えたものが出される。野球だけに集中できる環境がそこにはあった。

 四国六大学初のプロ野球選手ということもあり、周りの選手がやたらと眩しく見えた。
「どうしても周りが気になりましたよね。名門の高校や大学の選手がたくさんいるわけでしょう。地方出身者として軽く見られているんだろうなと思っていた」

 入団当初から中継ぎという役割を任された。その面白みが初めは全くわからなかった。
「カープでは、投手は中継ぎから入ることがよくあるんです。そこで経験を積んで先発に転向する。もしくは、投手コーチが中継ぎの方が向いていると考えれば、そのまま中継ぎを務める。最初は先発をやりたいと思った時期もありましたね」
 中継ぎの貢献度を客観的に評価するホールドポイントがセ・リーグに導入されたのは05年。天野がカープ入りした01年当時は、中継ぎを評価する記録が事実上、存在しなかった。抑えても、先発投手とストッパーが評価される。チームが負ければ、中継ぎ陣が戦犯として扱われる。報われない役割だな、と思った。

 それでも、時が経つにつれて、中継ぎの魅力が理解できるようになっていった。
「中継ぎの大切さが徐々にわかってきた。勝つも負けるも中継ぎ次第だと思えるようになったんです。先発でキッチリ完投できるピッチャーがいたらいいが、全ての試合でそういうわけにはいかないでしょう。リードしている試合でしっかりと抑えて、そのままストッパーに渡せた時が一番気持ちいい。先発投手の勝利を消さなかった時は本当に嬉しいですね」
 中継ぎの醍醐味を最も感じることができた試合がある。03年7月23日、東京ドームでのジャイアンツ戦。0−0の6回裏、先発のデイビーからタスキを受けた天野は2回3分の2無失点で抑えて、後続の菊地原につなげた。そのままスコアは0−0で推移。チームは9回表に1点を奪い、最後はストッパーの永川が締めた。決して失点は許されない状況で被安打ゼロの完璧なピッチングで後続に渡せたことが何より嬉しかった。プロで最も印象に残っている試合の一つだと天野は言う。

<弱気は最大の敵!>

 プロで影響を受けた投手には迷わず、93年に32歳の若さで他界した津田恒美さんの名を挙げる。現役時代に“炎のストッパー”といわれた大先輩の存在を入団前は知らなかった。
「入団してから『こういう人がいたんだ』とわかったんです。それからは津田さんに関する書籍やドラマを見ましたね。広島市民球場のブルペンには『弱気は最大の敵 笑顔と闘志を忘れないために』と書かれた記念プレートがある。カープの投手はそれを見て、気合を入れてマウンドに向かうんです。(津田さんは)気持ちはすごく弱い部分を持っている人でしょう。僕にもそういうところがあって、共感できる。それでいて、マウンドに立てば強気で直球勝負をする。本当にすごいなと。津田さんのことを考えるたびに『野球をしたいと思ってもできなかった人がいたんだ』と思うんです。それに比べて今の自分は恵まれていますよ」

 現在、天野はプロへ復帰するべく四国アイランドリーグで戦っている。プロの世界から離れたからこそ、そのよさがわかる。プロで通用するパワーを身につけるため、去年の末から加圧トレーニングを新たにメニューに取り入れた。カープ時代は68キロだった体重は74キロにまで増えた。
 そのような努力の甲斐もあってか、4月21日の高知ファイティングドッグス戦では無失点で完投、早くも3勝目を挙げた。同日現在、防御率1.03というリーグナンバーワンの成績を残している。プロのマウンドに戻る準備は着々と進んでいるといえるだろう。

 プロへの挑戦には期限を設けている。自分を追い込まなければNPBには戻れない。そういう天野の覚悟が感じられる。
「とりあえずNPBの補強期限の今年の6月までアピールする。そこまでに何とかしたい。それでダメだったら、今秋のドラフトへ。それでもダメだったら、翌年の6月にかける。そして、最後の機会は来秋のドラフトですね。僕の中ではプロへの挑戦は2年間と決めているんです」
 プロのマウンドで苦しい状況で思い浮かべていたのは津田氏の「弱気は最大の敵」という言葉だった。2年という限られた時間の中、強気の直球勝負でプロ行きの切符を必ずつかみとる。

(終わり)

<天野浩一(あまの・こういち)プロフィール> 1979年4月12日生まれ。香川県高松市出身。高松東高校から四国学院大へ進学。2001年、ドラフト10巡目で広島東洋カープに入団した。主に中継ぎとして5年間で121試合に登板。通算成績は5勝6敗で防御率4・45。06年10月に戦力外通告を受けて、四国アイランドリーグ・香川オリーブガイナーズに入団した。投手。右投右打。177センチ、72キロ。 







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