2014年がスタートしました。今年は2月にはソチオリンピック、3月にはソチパラリンピック、そして6、7月にはサッカーW杯と、世界を代表するスポーツの祭典が続くこともあって、例年以上にスポーツで盛り上がる1年となりそうですね。私が障害者スポーツに深くかかわるようになって約10年。私にとっても、節目の年となりそうです。そこで、今回は改めてこの10年を振り返ってみます。
(写真:約10年前、電動車椅子サッカーの全国大会をインターネット中継したことから始まった「モバチュウ」)
 現在、私はNPO法人STANDでユニバーサルな社会を目指した事業を行なっています。そのひとつが、障害者スポーツです。03年からスタートしたインターネットライブ中継「モバチュウ」や、10年に開設した障害者スポーツサイト「挑戦者たち」を運営するとともに、12年からはスポーツと文化のコラボレーションイベント「スポーツオブハート」の開催も行なっています。

 このように、現在は障害者スポーツに携わっている私ですが、10年前までは今の自分を想像すらしていませんでした。当時から知人の中には、障害がありながらも、スポーツを楽しんでいる人たちがいました。しかし、その時は障害者スポーツにかかわっているという認識はひとつもありませんでした。ただ、知人の中に障害がある人もいて、スポーツをしている。単に私はそれを応援しているだけのことだったのです。

 そんな私が障害者スポーツに深くかかわるようになったきっかけが、03年に初めて行なった動画配信でした。以前、このコーナーでも述べていますが、当時応援していた電動車椅子サッカーチームのメンバーの中に、障害のためにドクターから遠距離移動の許可がおりず、全国大会に出場できない選手がいました。そこで「チームメイトの活躍を見てもらいたい」という気持ちから、インターネットを使って大会会場から生中継を行なったのです。

 結果的に、それは大成功でした。会場に行くことができなかった選手は大変喜んで、自宅の部屋でユニホームを着用しながら見てくれました。さらに、他のチームにも見てもらおうと、会場ではネット配信していることを書いたカードを配っていました。すると「それ、何ですか?」と興味津々に聞いてくれた人たちも少なくありませんでした。アドレスさえあれば、全国どこでも見られることを知ると、私の知人同様、会場に足を運べなかった選手たちに連絡をしている姿も見受けられたのです。

 人生を変えた突然のパンチ

 しかし、実はその時、こんな言葉を投げられたのです。
「おまえら、障害者をさらし者にする気か!」
 そう言い残し、あるひとりの男性が走り去っていきました。それは思いもよらない言葉でした。まるで突然、パンチを見舞われたかのように、あまりの驚きで私は何も言い返すことができず、その場に立ちつくすしかありませんでした。その時の衝撃は、今でもはっきりと覚えています。

 思い返せば、その言葉が私のその後を大きく変えたひとつの要因だったような気がしています。もちろん、私は障害者をさらし者にしているなどと、これっぽっちも考えてはいませんでした。ただ、全国大会に行くために頑張ってきた知人に、試合を見てもらいたいという思いだけだったのです。それが、まさかあんなふうに言われるとは……ショックでたまりませんでした。そのため、その言葉が脳裏に焼き付いて、離れなくなってしまったのです。

 その後、私は動画配信の依頼を受けるようになり、約1年後の04年には「モバチュウ」を立ち上げ、さらに05年にはNPO法人STANDを設立しました。なぜ、それまでまったく考えてもいなかった障害者スポーツに、わずか1、2年のうちにどんどん自ら深く入り込んでいったのか。そして、なぜここまで続けてきたのか――。それは、あの時言われた言葉の答えを、無意識に探し求めてきたこともあるのかもしれません。実際、この10年間、何かにつけて私はあの言葉を思い出さずにはいられませんでした。私の胸にグサリと突き刺さったトゲは、そのままの状態だったのです。

 そして最近、その答えがようやく、おぼろげながらにも分かり始めてきたように感じています。ひとつは、なぜ「さらし者」という言葉が出てくるのかということです。これは障害者を特別視しているからにほかなりません。なぜなら、映像の対象者がもし健常者だった場合、「さらし者」という言葉が出てくることはまずありません。つまり、障害者を特別視する社会の意識がある以上、こういう言葉はなくならないのです。私に「さらし者にする気か」と怒鳴った男性は、おそらく障害者のことを思って言ったのだと思います。しかし、よく考えてみれば、こうした特別視が、障害者への偏見なのです。

 私は「さらし者にする気か」と言われたことで、日本が障害者に対して「さらし者」という言葉を発してしまう社会であることに衝撃を覚えたのでしょう。そして、障害者を特別視しない社会を目指し始めた。これが、私が障害者スポーツに深くかかわるようになった理由のひとつなのだということが、最近になってわかってきたのです。

 時代の変化を映すパラリンピック中継

 この10年間で、私は素晴らしい方たちと出会い、たくさんの貴重な経験をしてきました。そんな中で、私にエネルギーを与えてくれたひとりが、日本の“障害者スポーツの父”と言われている故・中村裕先生です。中村先生の存在を初めて知ったのは、大分国際車いすマラソンを観に行こうと、大会について調べた時のことでした。

 大分国際車いすマラソンは、1981年、国際障害者年の記念行事として中村先生が提案し、第1回が開催されました。その15年前、東京オリンピックが開催された64年には、パラリンピックが行なわれましたが、この時の日本選手団の団長として尽力したのが中村先生だったのです。この時代、障害者スポーツへの理解は皆無に等しく、中村先生は「障害者をさらし者にして、それでも医者か!」と批判を受けたそうです。

 そのことを知った時、「そうか、あの“障害者スポーツの父”である中村先生も、同じことを言われていたんだ……」と、なんだか勇気をいただけたような感じがしたのです。しかし、その反面、「50年経った今もまだ、同じことを言われているのか……」と愕然としたこともまた事実です。

 ただ、この50年で明らかに日本の社会は障害者スポーツへの理解を深め、前進しています。そのひとつの例として挙げられるのは、約1カ月後に迫ったソチパラリンピックでのテレビ放映です。これまでオリンピックはあっても、パラリンピックのテレビ中継はありませんでした。しかし、徐々に中継の範囲は広がってきています。4年前のバンクーバー大会では初めて決勝に進出したアイススレッジホッケーの試合が急遽、NHKで生中継されました。そして2年前のロンドン大会ではスカパーがダイジェスト版ではありましたが、毎日熱戦の模様を放映しました。

 そして、今回のソチ大会ではついにスカパーで全競技が中継されることが決定したのです。そのニュースが飛び交った際、「障害者をさらし者にする気か!」という世論は巻き起こることはありませんでした。「すごいなぁ」という声の方が圧倒的に多かったと感じています。時代は確実に変化しており、日本社会は一歩一歩、着実に前進しているのです。2020年東京大会はこの歩みを止めない最大の好機です。この絶好のチャンスを逃せば、またこの先50年、機会が訪れないかもしれないと思うと、覚悟を決めて向かう力が湧いてくるのです。

伊藤数子(いとう・かずこ)プロフィール>
新潟県出身。障害者スポーツをスポーツとして捉えるサイト「挑戦者たち」編集長。NPO法人STAND代表理事。1991年に車いす陸上を観戦したことがきっかけとなり、障害者スポーツに携わるようになる。現在は国や地域、年齢、性別、障害、職業の区別なく、誰もが皆明るく豊かに暮らす社会を実現するための「ユニバーサルコミュニケーション活動」を行なっている。その一環として障害者スポーツ事業を展開。コミュニティサイト「アスリート・ビレッジ」やインターネットライブ中継「モバチュウ」を運営している。2010年3月より障害者スポーツサイト「挑戦者たち」を開設。障害者スポーツのスポーツとしての魅力を伝えることを目指している。著書には『ようこそ! 障害者スポーツへ〜パラリンピックを目指すアスリートたち〜』(廣済堂出版)がある。

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