2012年8月4日、金沢――。

日本列島がロンドン五輪での関塚ジャパン、なでしこジャパンの躍進に沸いているころ、“ドラゴン”こと元日本代表FW久保竜彦の引退試合が行なわれていた。昨年、急性心筋梗塞で他界した松田直樹の一周忌ということもあり、主役の久保をはじめ奥大介、藤田俊哉、名波浩ら松田にゆかりのあるそうそうたるメンバーが顔をそろえた。



久保は昨年までJFLのツエーゲン金沢に在籍していた。戦力外通告を受けて、自宅のある広島に戻って移籍先を探していたが、最終的には引退を決断した。今年4月からは総合型地域クラブのNPO法人「廿日市スポーツクラブ」のストライカー養成コーチに就任し、週3回、県内各地から集まってくる子供たちを指導している。



そんなドラゴンのラストマッチ。JリーグOBを集めた「Jドリームス」に対して、相手は石川県の現役社会人チームが用意された。炎天下での試合ということもあって、30分ハーフとはいえ動きがいいのは当然ながら後者だった。主役に花を持たせるつもりはないのか、社会人チームの選手は久保にも容赦なく激しく体をぶつけてきた。



ドラゴンも目つきを変え、オフサイドラインぎりぎりのところで裏へ飛び出していく。大きなストライド、柔らかい身のこなしは健在で、スタンドで観戦した筆者は彼が日本代表でエースだった時代を思い起こしていた。



久保というストライカーを語るにおいて、日本のサッカーファンに鮮烈な印象として残っているのはあのペトル・チェフから奪ったチェコ戦のゴールだろう。



04年4月の東欧遠征。強豪チェコの守備陣を手玉に取って、シュートをぶちこんだシーンは痛快だった。一瞬のスピードでサイドのスペースに抜け出し、ペナルティーエリアに侵入すると切り返してからファーに打つと見せかけ、ニアにシュートを決めたのだ。



当時日本代表監督だったジーコも「クボには世界を相手にしても十分にやっていけるクオリティーがある」と興奮気味に語ったものだ。



今春、広島を訪れたときに久保はこう言っていた。

「あの時のゴールはうれしかったよ。でもチェフは本気じゃなかった。反応が遅かったもん。所詮、相手にしてみたら親善試合。本気じゃないんよ」



世界のヤツらと真剣勝負がしたい――。

チェコ戦後、そんな思いが久保のなかでどんどんと膨らむようになっていた。しかしながら04年の夏以降、右ひざ、腰などケガの連鎖によって離脱を繰り返すようになる。





当時、スポーツ新聞の横浜F・マリノス担当だった筆者は、必死になってリハビリに取り組む久保の姿を見てきた。鍼、電気などあらゆる治療を施した。体にいいと聞くや東北まで断食修行に何度も向かった。精進料理ばかりを口にするようになり、大好きな酒もぴたりと止め、状態は快方に向かっていた。しかし、そんな矢先に今度は左ひざを痛めた。もう、心も限界だった。



久保は言った。「ピッチに立たんと男はダメやろ。試合、やりたかったよ。でも何でやれないのかと思うと辛かった。試合をスタンドで見ていてどうするん。苦しかったね、あんときは」



それでも久保は耐えに耐えた。サッカー人として夢に挑むためには、一切妥協しなかった。その甲斐あってドイツW杯イヤーの06年に代表へ復帰し、同年のフィンランド戦、インド戦で2試合連続ゴールを決めた。しかしながら、コンディションは万全の状態に戻らず、本大会のメンバーには選ばれなかった。



「W杯か、そりゃ行きたかったよ」

久保が吐き出した言葉にはズシンと来る重みがあった。



06年以降も久保の試練は続いた。マリノスを去り、07年に移籍した横浜FCでは浦和レッズとの開幕戦でとんでもないロングシュートを放ってみせたものの、活躍したのはそれぐらい。翌年に復帰した古巣のサンフレッチェ広島でも世代交代の波に押され、10年からは金沢でもうひと花咲かそうとしたが、志なかばでチームを離れるしかなかった。残念ながら久保にリベンジのチャンスは訪れなかった。



現役生活にピリオドを打った久保は、灼熱のピッチで楽しそうにボールを追いかけていた。引退試合にゴールはつきものなのだが、ガチで挑んでくる相手にゴールを割れなかった。ハッピーエンドで終わらないあたりが久保らしいところだ。

「みんな来てくれたしゴールを取りたかったけど、取れんかった。でもみんなとサッカーをやれて、楽しかったな」



久保は汗を流しながらそう言って、豪快に笑い飛ばした。幸せそうな表情だった。

日本サッカー史に強烈なインパクトをもたらしたストライカーに、スタンドからは惜しみない拍手がいつまでも送られていた。



(この連載は毎月第1、3木曜更新です)


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