サッカーが聖域ではなくなった苦みと五輪世代への期待

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 サッカーだけは大丈夫、と無邪気に信じていた時代があった。

 

 72年のミュンヘン五輪。パレスチナ過激派のテロにより、イスラエルの選手11人が殺害された。2年後、W杯西ドイツ大会でテロは起きなかった。

 

 80年のモスクワ五輪。ソ連のアフガン侵攻を理由に、西側諸国は大会参加をボイコットし、4年後のロス五輪では意趣返しとばかりに東側諸国がボイコットにでた。だが、82年のW杯スペイン大会にソ連は出場し、だからといってボイコットの挙に出る国は現れなかった。

 

 サッカーは、世界に多くの国にとって国民的スポーツ。故に、テロリストといえども標的にすることはない。すれば、民心を失う。サッカーは、だから大丈夫。そう信じてきた。

 

 英国メディアなどによると、8日過激派組織「イスラム国」による欧州CLに対するテロが予告されたという。いまのところこれといった事件は起きていないようだが、サッカーが標的にされたという事実は残ってしまった。

 

 先のW杯カタール大会ではモロッコがベスト4に進出し、アジアを含めたアラブ地域の人々は大きな自信をつかんだはずだった。CLは欧州の大会といえども、アラブにツールを持つ選手はもはや少しも珍しくない。当然、観客席にもアラブ系のファンはいる。そんな舞台をテロの標的にすることによって、彼らは何を得ようというのか。

 

 ウクライナに侵攻した代償として、ロシアのサッカーは世界に挑む権利を奪われた。一方で、ガザの人々を死に追いやっているイスラエルに対して、ロシアと同様の制裁を科すべきだ、との声は、FIFAからもUEFAからも聞こえてこない。途方もない不公平さを感じる人がいる可能性は、確かにある。

 

 とはいえ、わたしの狭い知見では、サッカーを、CLをテロの対象とすることで、彼らが何を得ようとしているのかがまるでわからない。欧州のメディアを眺めても、意図を解説してくれているところが見当たらない。サッカーはもはや聖域ではなくなってしまったという苦さだけが、いまはある。

 

 さて、来週からはいよいよパリ五輪の最終予選が始まる。1次リーグの相手は中国、UAE、韓国。すべての国にW杯出場経験があるという、かなり厳しい組に入った。

 

 ただ、個人的には過去数大会とは比べものにならないぐらい、楽しみが募る予選でもある。今回の予選、そして勝ち抜いた先にあるパリでの本大会は、大きな節目になりそうな気がしている。

 

 というのも、過去、日本には“天才”と称される選手が何人かいたが、その中に「強さ」を持った選手はいなかった。強い選手がいないわけではないが、そのほとんどは技術の低さを補うための強さであり、最高級の技術と、最大級の強さを併せ持つ選手はいなかった。

 

 今回は、いる。

 

 それは、技巧派でありながら強さを追い求めた久保の影響なのかもしれない。この世代には、早い段階から技術と強さの両方を追い求めてきた選手たちが少なからずいる。

 

 たとえばFC東京で腕章を巻く松木。極上の左足を持ちながら、相手をはね飛ばしてでも前進する体と気持ちの強さがある。かつてないタイプの選手を擁するチームは、従来の日本のイメージを覆すようなサッカーをしてくれるかもしれない。そんな期待が高まる五輪最終予選である。

 

<この原稿は24年4月11日付「スポ-ツニッポン」に掲載されています>

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