ノンフィクションの書き手の主たる仕事の一つは、調べることだ。

 

 日頃から気になった書籍は読む時間がないかもしれないと思いながら手に入れて、書棚に入れる。国会図書館はぼくたちの別荘のようなものだ。時に神保町の古書店に足を伸ばすこともある。国外でもサンパウロの新聞図書館に籠もった時期があった。近年はインターネットでの検索も精度に気をつければ使えなくもない。ここ20年ほどでぼくたちが手に入れることのできる情報は格段に増えた。

 

 とはいえ、そこにはかなりの濃淡がある。その国に力をもったメディアがあるかどうか、インターネットを使う中間層の厚みがあるかどうか――。

 

 南米大陸ではブラジルは情報技術が発達しており、ポルトガル語さえ理解できれば、過去の試合記録などを公式、あるいは好事家のサイトで調べることが可能だ(もちろん裏付けは必要だ)。一方、ペルーの情報は限られている。元ペルー代表のそんなホルヘ・ヒラノは空白地帯、隙間に落ちていた。

 

 インターネットで調べると彼がペルーのラジオ局の取材を受けていた。少なくともその時期は、彼は日本にいたのだ。拙著『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』で取材した栗本直とは、その後も連絡をとりあった。栗本にホルヘ・ヒラノに話を聞けないかと相談すると、連絡先は全く知らないという。ただ、誰か繋がっている人間がいるかもしれない、聞いてみるとのことだった。それから数カ月した頃、見知らぬ番号から電話が入った。ヒラノの娘、アケミだった。彼はやはり日本に住んでいるという――。

 

(写真:赤いセーターを着たホルヘ・ヒラノ氏。撮影は筆者。)

 2024年2月、ぼくは千葉県の内陸部にあるヒラノの自宅を訪れた。教えられた住所で車を停めると、玄関から赤いセーターを着た男が顔を出した。ヒラノだった。

 

 自宅のダイニングキッチンで話を聞くことになった。父はあまり日本語が得意ではないので、ぼくが通訳しますねと息子のケニーがヒラノの隣りに座った。

 

 深刻だった農村地帯

 

 ヒラノはペルーの日系三世にあたる。ただし、一家は日本に移住し、日本の国籍を取得したため「今は、一世」と笑った。

 

 平野家の移民の歴史は100年以上前に遡る――。

 

 ヒラノの祖父、熊本県玉名郡天水町の平野佐次郎が『静洋丸』という移民船から降りてペルーの港町、カジャオの地を踏んだのは、1918年1月22日のことだった。佐次郎はまだ18才だった。

 

 日本からペルーの移民が本格的に始まったのは、1899年だ。

 

 この時期、日本は急激な人口増加により、貧困と失業という問題を抱えていた。

 

 特に深刻だったのは、農村である。日本の国土は小さく、耕作可能な土地は6分の1に過ぎない。田畑を子どもに分割すれば困窮は進む。とはいえ、日本政府が注力していた工業化は端緒についたばかりで、農村の余剰人員の受け皿とはならなかった。口減らし、が急務だった。

 

 棄民である――。

 

 最初の目的地となったのはハワイだった。

 

 157人の移民が1869年にハワイに到着、1894年までにハワイには3万人もの日本人が移民したという。しかし、彼らの多くはハワイに定住することなく、アメリカ本土のカリフォルニア州に向かった。大量の移民に対して排斥運動が起こり、アメリカへ移民の道が閉ざされた。そこで日本政府が目をつけたのが、南米大陸のペルーとブラジルだった。

 

 無残に散る夢

 

 移民を主導したのは、政府公認の移民会社である。新聞に掲載された移民募集広告はこんな風だ。

 

<賃金は日給一円二〇銭だが、能率と勤勉しだいである。この支払い制度では一日に二円五〇銭近く貯金するの容易である。一ヵ月、二八円から二九円稼ぐとして毎月のかかりが七円か八円だとすれば、まるまる二一円か二二円の稼ぎになる。農場はペルーの海岸の砂漠地帯になる。涼しい風が一年中太平洋から吹いている。決して暑過ぎることはない。気候は日本人向きだ、風土病はいっさいない。この地域は健康に最適。そのうえペルー人は日本人を大歓迎>

 

 初期の募集では<年齢二〇才から四五才、身体壮健、勤労意欲が高く「品行方正」>という条件がつけられていた。

 

 4年間の期限つきの農業移民である。移民たちはこの期間で財産を作り帰国する夢を抱いていた。しかし、彼らはペルーがどのような国であるか知らなかった。その夢は無残に散ることを彼らは知らなかった。

 

 移民たちはペルーに到着すると、出身県で分けられ、農園へ運ばれた。佐次郎たち静洋丸の熊本県民は「カニエテ」に割り当てられた。

 

 ペルーで耕作可能な土地の面積は約1パーセント。国土の約12パーセントは「コスタ」と呼ばれる特に耕作の困難な砂漠地帯である。カニエテは「コスタ」にあり、もっとも過酷な日本人入植地の一つだった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『cuba ユーウツな楽園』 (アミューズブックス)、『此処ではない何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『ジーコジャパン11のブラジル流方程式』 (講談社プラスα文庫)、『W杯ビジネス30年戦争』 (新潮社)、『楽天が巨人に勝つ日-スポーツビジネス下克上-』 (学研新書)、『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)。最新刊は「スポーツアイデンティティ どのスポーツを選ぶかで人生は決まる」(太田出版)。

2019年より鳥取大学医学部附属病院広報誌「カニジル」編集長を務める。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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