さて、この1球をどこへどう投げるのか。立ちはだかるのは昨年二冠王に輝いた強打の右打者。内角か外角か? 投球の行くえを、文字通り固唾を飲んで見守った――。

 

 4-0とリードして迎えた6回裏。ここまでノーヒットの好投を見せたが、この回、1死から3連打を浴びて、あっという間に満塁の大ピンチ。ここで打席に迎えたのが昨年42本塁打、130打点の3番ノーラン・アレナドである。

 

 そう、マウンドにいるのはロサンゼルス・ドジャースの前田健太。4月23日(現地時間)、場所は相手コロラド・ロッキーズの本拠地クアーズ・フィールドだ。この球場は標高1600メートルの高地にあり、打球がよく飛ぶ打者有利のスタジアムとして名高い。しかも、ロッキーズはリーグでも1、2を争う強打線である。正直に言って、試合前は、6回3失点くらいのいわゆるクオリティ・スタートができれば御の字だろうと思っていた。

 

 ところがどっこい。前田は、いきなり2連続三振と絶好の立ち上がりを見せ、なんと6回1死までノーヒットの快投を続けた。そして冒頭のシーンを迎えたのである。

 

 カウント1-2と追い込んでからの4球目、投じられたボールは真ん中あたりへ進んでいく。うわっ、高目に浮いたあ!? 次の瞬間、強振したアレナドの当たりはセカンドフライ。助かった――。

 

 続く4番ジェラルド・パーラもピッチャーゴロに打ちとって、1死満塁で3、4番というピンチを無失点できりぬけたのである。

 

 ところで、アレナドを打ちとったボールは何だったのだろうか。ツーシームが高目に行ったのか? 広島時代だと対右打者のこういうケースでは、ほぼ外角のスライダーだったはずだが……。と思っていたら、なんと、内角へのチェンジアップだそうだ。

 

「正直、自分の頭にはなかった(球種)。信じて投げた」(「スポーツニッポン」4月25日付)

 

 と、本人が証言している。こうも言っている。

 

「マウンドで(捕手の)AJが満塁だけど内にどんどん行くよと言ってくれた」(「日刊スポーツ」4月25日付)

 

 ちなみにA.J.エリスは打力よりもリードを評価される捕手である。この日の前田は、「速球、チェンジアップが素晴らしかった」(同)とコメントしている。

 

 有言実行の男

 

 はたして前田健太はメジャーリーグで成功できるのか――。これは、なかなか微妙な問題である。

 

 たとえばドジャースとの契約にもそれは現れている。報道によれば、年俸総額2500万ドル(約29億5000万円)の8年契約と伝えられている。すなわち、年俸にすれば、一年あたり3億6800万円(ちなみに同じようなタイプ、実力といえるオリックスの金子千尋は2016年の年俸5億円といわれている)。ただし、出来高をいろいろクリアしていくと、最高で年俸12億円くらいまでいく可能性があるそうだ。

 

 これには、おそらく入団会見で前田自身が明らかにしたフィジカルチェックで「イレギュラー」が見つかったことも関係しているのだろう。報道によれば、「イレギュラー」の部位は右肘とされる(もちろん契約に関することは、何事であれ、憶測が入ります)。

 

 メジャーで成功した日本人投手は、たいていフォークボール(あるいはスプリット)を決め球にしている。野茂英雄、佐々木主浩、上原浩治、岩隈久志、そして田中将大まで含めてそうだ(ダルビッシュ有はすべてのボールが決め球といえるので別格とする)。しかし、前田にはフォークボールはない。スライダー、チェンジアップが基本である。しかも肘に不安を抱えているとなれば、メジャーの側にとっても懸念材料にはなるだろう。

 

 ところで、私は広島カープの前田健太のファンである(今や、「であった」だが)。

 

 彼を語るとき、前回のWBCを間近にしたキャンプのことが忘れられない。彼は日本代表の一員として練習試合に先発したのだが、明らかに変調をきたしていた。肩・肘に異変が起きているとしか思えない投球だった。これではマエケンは出場辞退だな、と思ったものだ。

 

 彼の生き方の特徴として「有言実行」がある。まず、大言壮語する。その言葉に自分で追いついていく。

 

 カープ入団後も、まず「エースと呼ばれたい」と言った。球団OBの中には「まだ早い」と揶揄する人もいたが、実際にエースにのぼりつめた。WBCに関しても「日本のエースになりたい」と言った。しかし、当時、日本代表のエースは、大方は、田中将大と目されていた。そのうえ、大会直前での明らかな変調である。

 

 で、本番のWBCでは、どうなったか。田中将大のほうが調整に失敗したらしく、思うような投球ができなかった。そして、前田は鬼の調整で状態を上げ、本番では予告通り、日本代表のエース格として活躍したのである。

 

 不安視される耐久性

 

 前田のポスティングシステムによるメジャー移籍がいよいよ現実味を帯びてきた昨秋、メジャーの評価として「耐久性に不安がある」という言葉をしばしば目にした。

 

 要するに、1試合なら通用するだろうが、年間通して投げられるのか。あるいは何年も続けて投げられるのか未知数だ、ということだろう。

 

 私も、あのスライダーはメジャーでも十分通用すると踏んでいた。問題はチェンジアップが落ちるかどうかであって、フォークがないのは問題ではない。

 

 メジャーに行って藤川球児や和田毅のようになる可能性は、どうしても頭をよぎる(2人とも移籍して早々に故障して手術、リハビリを余儀なくされた)。

 

 体型的にも、ダルビッシュや黒田博樹というより、和田、藤川系ですからね。しかも、あのダルビッシュでさえ、肘を故障し、トミー・ジョン手術を受けたのだ。松坂大輔もしかり。前田の契約について、このような条件をのむことは、後に続く日本人投手のためにならない、とする評論も目にしたが、それを言うなら、先輩投手たちの「耐久性」が、影響を及ぼした側面もないとはいえないだろう。

 

 ただし、くり返すが、あのダルビッシュでさえ故障したのだ。中4日が基本の登板間隔、日本製よりやや重くて滑るボール、硬いマウンド――。よく言われるこの3点セットを含め、日本人投手にとってタフな環境であることは間違いあるまい。

 

 そして「イレギュラー」を抱える前田が(このことは、前田のWBC直前の登板を思い出してもうなずける)、はたしてかの地で成功できるのか。一片の不安もない、とは誰も言い切れないだろう。

 

 通用するという根拠

 

 だからこそ、あえて「前田健太は成功する」と、ここで断言してみたい。

 

 本人も、これまで自分はローテーションに大きな穴をあけることなく投げ続けてきた、調整には自信がある、と言っている。前田の言葉を無条件に鵜呑みにするわけではないが(なにしろあのダルビッシュでさえ……あ、くどいですね)、その証拠として、まず彼はこれまでの日本人のエースとは少しタイプ、考え方が違うことをあげておきたい。

 

 たとえば松坂大輔や、渡米前の黒田博樹が典型的だが(渡米後は、もちろん別です)、エースは完投するべきであるという考え方が日本球界には根強くある。ところが前田は「自分がカープのエース」と公言してはばからなかったのにもかかわらず、完投には全くこだわりを見せなかった。実際、「9回まで投げないで、なにがエースだ」と批判する評論家も多かったのである。

 

 彼が、いわゆるメジャー式の「100球思想」(先発投手は100球メドで降板する)の信奉者なのかどうかは知らない。むしろ、1年間、ローテーションを守り通すために、投球数をコントロールし、完投にこだわらなかったように見える。多くのOB評論家が批判的だったことは当然わかっていたうえでのことだから、これは彼の生き方、思想といっていいだろう。それは、メジャーに行ってからの「耐久性」という点では、有利に働くのではないだろうか。

 

 それから絶対的な武器であるスライダーが通用するのは大前提だが(これが通用しなかったらメジャーでの成功はない)、左打者に多用するチェンジアップ、ツーシームがどうもアメリカ製のボールのほうが鋭く変化しているように見える。(たとえば広島での2014年のシーズン、肝心なところで打たれることが多かったが、これはチェンジアップが思うように落ちず、左打者にとらえられたことが大きい)。ところが、WBC公認球(ローリングス社製)を使った2014年オフの日米野球のときは、チェンジアップがシーズン中とは見ちがえるほど落ちていた。スライダーと対になるこのボールの出来いかんが彼の成功と失敗を分けるはずだ。

 

 ご承知のように、メジャーリーグにデビューしてから、4試合で3勝をあげ、その間わずか1失点という、見事なスタートを切った(5試合目の敗戦も好投といってさしつかえない)。「ケンタ・マエダのマーベラスな日々」とでも呼びたくなる。決して大谷翔平のような剛球投手ではないが、彼は見ていて、非常に楽しい投手である。これも特質としてあげるべきだろう。

 

 一例として、冒頭のアレナドの打席に戻ってみよう。この打席、A.J.エリスの配球はこうだった。

 

1、内角低目 ツーシーム ストライク

2、外角高めから大きく落ちるカーブ ストライク

3、高目のストレート ウエスト

 これでカウント1-2

4、内角(真ん中寄りだったが)チェンジアップ

 

 満塁からインローを攻めた初球のツーシームが去年までにない威力に見えた。そして外角高めから落ちるカーブ、高めウエストボールと打者の目線をもっていっておいて、インコースに食いこむチェンジアップ。ストライクゾーンを奥行きのある空間として使ったリードであり投球だ。これは“スライダーのマエケン”から“メジャー仕様のケンタ・マエダ”に進化する徴候なのかもしれない。

 

 もう1打席、あげておこう。

 

 メジャーデビューを飾った4月6日のサンディエゴ・パドレス戦。6回無失点で初勝利をあげ、ここから「マーベラスな日々」が始まったのだが、おっ、と目を惹く打席があった。2回裏、パドレスの4番ウィル・マイヤーズからメジャー初三振を奪ったシーンだ(マイヤーズは右打者)。

 

1、外角やや高目 ストレート ストライク

2、内角低目 ツーシーム ボール

3、外角低目 スライダー 空振り 2ストライク

4、外角低目 スライダー ボール(意識的に大きくはずす)

 カウント2-2

5、(サインに1回首を振って)

  外角低目 スライダー 見逃し三振!

 

 配球だけ見ると、カープのマエケンが例によって、スライダーで右打者を三振に打ちとったように見える。しかし、5球目のスライダーは、3球目、4球目とは別物である。3、4球目が横に大きく逃げていったのに対し、5球目は、球道は外角低目のまま、打者の手前で少しだけ沈んだ。見ているこちらまで、タイミングを狂わされて、思わず前のめりに見逃すような感覚だった。

 

 このボールについては、ドジャースの往年の大エース、オーレル・ハーシュハイザーの評論が秀逸だった。

「2ストライク目は大きく曲がった。だから打者はスライダーは外れると思い見逃したが、前田は曲がりを小さくした。12インチ(約30センチ)ではなく2~3インチ(約7センチ)の曲がりにした。野球への理解が深い証拠」(「スポーツニッポン」4月8日付)

 

 つけ加える言葉は何もない。

 

 求められる安定感

 

 ただ、メジャーに渡った日本人選手誰もが成功したわけではない。

 

 先にあげた和田毅、藤川球児は、大変失礼ながら失敗したと私は感じるし、野手でも、西岡剛や中島宏之が成功したとは、とても言えまい。大成功したのは、野茂英雄、イチロー、松井秀喜(なんたって、ワールドシリーズのMVP)だろう。個人的には黒田博樹も大成功者の1人だと考える。ドジャース、ニューヨーク・ヤンキースという名門球団で7年間ローテーションを守り抜き、大きな故障をしなかった。それどころか、ヤンキースのエースとして、あのデレク・ジーターのヤンキースタジアムの最終戦(事実上の引退試合)に先発したのである。

 

 その黒田が、いわゆる「クオリティ・スタート」について聞かれて、このように答えている。

「……ちょっと日本とアメリカでは違うかもしれない。(略)僕はクオリティ・スタートという発想は、年間162試合あり、その中でも20連戦のような過酷な日程で、中4日で登板するからこそ意味があると思うんです。中4日と、中6日では重みが違う」(「Number」878、2015年6月4日号)

 

 先発は中6日が主流の日本野球で、安易にメジャー流の「クオリティ・スタート」の発想を持ちこむことに警鐘を鳴らしたきわめて鋭い発言といえよう。

 

 ひるがえって、前田にこれから求められるのは、中4日、100球、クオリティ・スタートを年間通して、あるいは何年も続けて成し遂げることである。

 

 問われているのは、単に技術力だけではない。

 

 有言実行の男は、調整には自信があるという言葉も含めて、有言実行を貫くと思いたい。契約で、おそらくは苦い思いをしたことも、そのエネルギーに変えるのではないか。

 

 このうえもなく素敵なスタートでみせた魅力的な投球と、これまで日本野球で示してきた生き方を考え合わせるとき、田中将大だって1年目の前半戦はすばらしかったけど故障したぞ、という声があることは重々承知しつつ、「前田健太は成功する」と断じたくなるのだ。

 

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール

1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。


◎バックナンバーはこちらから