7日(日本時間8日)に開幕するリオデジャネイロパラリンピック。注目競技のひとつが、国枝慎吾が出場する車いすテニス男子シングルスだ。このリオで3連覇がかかる。国枝は年間グランドスラム5度達成の車いす界のヒーローである。「魅せながら勝つ」がモットーと語っていた国枝の6年前の原稿を振り返ろう。

 

<この原稿は2010年2月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

 

 ロジャー・フェデラー(スイス)といえば男子シングルス4大大会で歴代最多の15勝を挙げているテニス界きってのスーパースターだ。

 

 そのフェデラーに、ある日本人記者がこんな質問をしたことがある。

「日本の女子選手は世界でまあまあ通用しているが、男子は通用していない。どう思うか?」

 

 フェデラーは「何を言っているんだ?」とでも言いたげな口ぶりで、こう返した。

「日本には国枝慎吾がいるじゃないか」

 

 2004年アテネパラリンピックダブルス優勝、07年には車いすテニス史上初の年間グランドスラム(4大大会制覇)達成、08年北京パラリンピックシングルス優勝。

 

 車いすテニス最強のプレーヤー――それが国枝慎吾である。

 

 その国枝が今年4月、安定していた大学職員という身分を捨て、プロに転向した。もちろん、日本では初のプロ車いすテニスプレーヤーである。

「プロとしてテニス一本でやっていこうと考え始めたのが07年に世界一に返り咲いてから。そのためには北京パラリンピックで結果を出さなければならない。結果が出なければメディアも取り上げてくれないし、スポンサーもついてくれません。

 

 で、北京で結果を出すことができた。金メダルを獲得したら次なる目標、次なる刺激が必要になる。それで大学職員を辞め、プロになることを決意したんです」

 

 プロ車いすテニスプレーヤーとはいっても、賞金は4大大会全てで優勝しても600万円程度。旅費や宿泊費は自分持ちだ。文字どおり生活を賭けて試合に臨む。

「海外の選手は皆ストイックです。ハングリー精神むき出しで向かってくる。早く日本の障害者スポーツもそうならなければならない。

 

 たとえばプロ野球選手になれば豊かな生活が約束される。(健常者の)子供がプロ野球選手に憧れるように障害を持つ子供がプロ車いすテニスプレーヤーに憧れる環境をつくりたい。“世界一になれば車いすでもたくさん稼げるんだ”という道を示したいんです」

 

 この国において障害者スポーツは未だに同情の対象として見られることが少なくない。「勇気をもらってありがとう」などという反応が、その典型だ。

 

 しかし、彼らは健常者から同情を得るためにプレーしているわけではない。あくまでも勝利を目指して戦い、その過程で自らの成長を実感する。それがスポーツの良さであり、そこに健常者との違いはない。

「僕自身、車いすに乗ってプレーしているということで、よく“偉いね”って言われるんですけど、別に偉くも何ともない。(健常者の)皆さんが普通にスポーツに親しむように、ただ僕は車いすを使ったスポーツをしたかっただけ。でも最近はいちいち“別に偉くないですよ”と言い返すのも面倒くさくなってきちゃった(苦笑)。

 

 とにかく僕自身のプレーを見てもらえば、確実に“これはスポーツなんだ”と理解してもらえると思うし、“かわいそう”という先入観も吹き飛ぶと思うんです。そうした面からも障害者スポーツに対する概念を変えていきたい」

 

 体の異変に気づいたのは小学4年生の時だった。朝起きたら腰に痛みが走った。最初は野球の練習で腰を落とす動作をやり過ぎたせいかと思った。

 

 ところが、いつまでたっても痛みがひかない。夜も眠れない。これはおかしいと病院で検査を受けたところ脊椎に腫瘍が見つかった。すぐに手術を受け腫瘍の摘出に成功したものの、待っていたのは車いすでの生活だった。

「よくショックはありませんでしたか? と聞かれるのですが、それはなかった。まだ小学生だったので、むしろ体育ができない、野球ができないということの方がショックだったかな。親から“一生車いすだよ”と言われたのは、その1、2年後。このタイミングもよかったのかもしれません」

 

 元々、運動神経には自信があった。巨人の大ファンで、将来はプロ野球選手になることを夢見ていた。

 

 母親の薦めもあり、小学6年になって車いすテニスを始めた。すぐにこの競技のとりこになった。高校1年の時、ヨーロッパ遠征に参加した。これが国枝の後々の人生を決定付けることになる。

 

「技術、パワー、そして気迫。全てが違っていた。これで生きていこうという彼らの意志がひしひしと伝わってきた。いつか彼らと一緒にプレーしたい、対戦してみたい……。自分の中で初めて車いすテニスに対する夢が持てた瞬間でした」

 

 やる以上は頂点に立ちたい――。それ以来、国枝は一心不乱にこの競技に打ち込んできた。15歳で海外ツアーをスタートし、今も世界中を飛び回る日々。06年、ウィンブルドン(ダブルス)を制した際には、テニスプレーヤーとして最高の栄誉である「チャンピオンズ・ディナー」にも招待された。

 

「その時にフェデラーが僕に駆け寄ってきて、こう言ったんです。“すごい試合だったね。興奮したよ”って。この言葉は自分のこれまでの人生の中で最高の宝物ですね」

 

 そう言って25歳はニコッと笑った。

 

 近年はメンタル面の強化にも取り組む。06年からアン・クイーンというオーストラリアの女性セラピストのトレーニングを受けた。

 

「まだ世界ランキング12位だった時に彼女に聞いたんです。僕は“世界一になれますか?”って。すると、こう言われました。“世界一になりたいではなく、世界ナンバーワンと断言することを習慣にしなさい”って」

 

 それ以来、朝起きると必ず鏡の前の自分を見てこう叫ぶ。

「オレは最強だ!」

 

 プロになった以上は、ただ勝つだけでは満足しない。

「魅せながら勝つ」

 

 パイオニアの挑戦は続く。

 


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