過酷な難民生活を乗り越えてたどり着いた夢の舞台 ~パラアスリート、イブラヒム・フセインインタビュー~
シリア内戦で右脚の一部(ふくらはぎから下)を失ったイブラヒム・フセイン選手。塗炭の苦しみを乗り越え、パラリンピックの難民選手団の一員となった。その壮絶な人生と、自身の使命について当HP編集長・二宮清純と語り合う。
二宮清純: まずは、シリア内戦でフセインさんの身に起きた出来事についてお聞きしたいと思います。当時、フセインさんはシリアのどの辺りにお住まいだったのですか。
イブラヒム・フセイン: 私たち家族が暮らしていたのは、イラク国境に近いユーフラテス川沿いのデリゾールという都市です。シリア内戦は2011年3月に始まりましたが、次第に私たちの町にも戦火が迫り、家族は避難したものの、私は自宅にとどまっていました。
二宮: つらい記憶だとは思いますが、けがを負った日のことについて教えてください。
フセイン: それは忘れもしない、12年10月2日の出来事でした。仲間で集まっている時に、友人がスナイパーから銃撃を受けたのです。私はビル陰に逃げ込んでいたのですが、その友人が「イブラヒム、助けてくれ!」と叫びました。出て行けば、私も撃たれる危険性がある。けれども、私の名前を呼んでいる以上、逃げるわけにはいかないと思い、助けに行きました。そこに戦車の砲弾が飛んできて爆発したのです。気が付いた時には、私の右脚は吹き飛び、体のあちらこちらに砲弾の金属片がめり込んでいました。
二宮: 言葉を失います。その友人は無事だったのですか。
フセイン: 幸い、命は助かりました。一方、私は爆発音を聞いた仲間たちに救助され、臨時の救護所に運び込まれました。
二宮: 内戦下の混乱でけが人も多かったでしょうから、治療も大変だったのでは?
フセイン: はい。救護所とは名ばかりで、満足に治療してもらえる場所ではありませんでした。治療を担当してくれたのも歯科医師で、痛み止めの麻酔も何もない状況です。私は、暴れないよう友人たちに押さえつけられながら、傷口を縫うなど最低限の処置をしてもらいました。
二宮: 助けられた友人も、フセインさんが右脚を失ったことに心を痛めたでしょうね。
フセイン: 彼は、その後シリアから逃れ、トルコで結婚し、今は子どもにも恵まれて幸せに暮らしています。私が右脚を失って難民になっていることに関しては、「本当に申し訳ない」と心を痛めているようです。しかし、私は今でも「あの時に友人を助けられてよかった」と思っています。もちろん、後悔もしていません。だから、彼が心苦しいと思う必要は全くない。むしろ、彼自身がいろいろな困難を乗り越えて、前向きに生きていることは、素晴らしいことだと思っています。
二宮: フセインさんは、その後シリアを脱出し、トルコ経由でギリシャに入国されます。その経緯についてもお話しいただけますか。
フセイン: 負傷した脚が悪化する可能性があったので、きちんとした治療を受けられる所まで移動する必要がありました。その際、ユーフラテス川を渡る必要があったのですが、軍に制圧され、常に監視されている状況でした。そこで私は、友人たちとともに夜が明けきらない朝4時に川を渡りました。川を渡ってしまえば公共交通機関が正常に動いていたので、身を隠しながら5時間ほどかけて北上し、トルコとの国境を越えることができました。
二宮: 義足がない状態で、それだけの大移動をしたのですか。
フセイン: そうです。皆さんが想像するような車いすとは程遠いものですが、簡易な車いすを借りて、それを友人が押してくれて移動しました。住んでいた町から5時間かけて川を渡るところまで行き、川を渡った後、その友人は再びシリアに戻って帰っていきました。ただ、残念ながら彼はその後、戦闘に巻き込まれて右腕を失ってしまいました。
二宮: それも悲しい知らせですね。トルコに入ってからは、どこに行かれたのですか。
フセイン: まずシャンルウルファという町に入りました。そこで必要な医療を提供してもらえるという別の町の情報を得て、そこに6カ月ほど滞在し、義足を作ってもらいました。ところが、履いている途中で義足が外れたり、ネジが取れたりして、日常生活をスムーズに送れるような状況にはなりませんでした。それで、さらにイスタンブールへ移動したのです。
二宮: その後、さらにギリシャを目指すわけですが、その理由は?
フセイン: イスタンブールには6カ月ぐらいいたのですが、十分な治療は期待できませんでした。そこで、イスタンブールからエーゲ海に面するイズミルという町まで移動し、そこからギリシャのサモス島へ渡る決断をしたのです。
二宮: サモス島はよくニュースにも出てきます。シリアやアフガニスタン、イラクの紛争から逃れ、ヨーロッパを目指す難民の「玄関口」ともいわれる場所です。一方で、途中でボートが沈没して亡くなる人も大勢いると聞きました。恐怖心はありませんでしたか。
フセイン: リスクがあることは承知していましたが、恐怖心は一切ありませんでした。なぜなら、それまでトルコにいた時の状況が過酷で、希望も何も見えない状況だったからです。それこそ、「死んだほうが楽になれるかもしれない」と思うほどでした。だから、死に対する恐怖心もなかった。ただ、同じ船に乗っていた人たちはすごく怖かったようで、泣いている人や祈っている人もいました。
二宮: サモス島までは、ボートでどのくらいの時間がかかるのでしょうか。
フセイン: 4時間半から5時間ぐらいかかったと思います。イズミルからボートに乗るまでの間は農場の一角に身を隠し、夜になってから水辺まで移動してボードに搭乗しました。6メートルほどのゴムボートに18人が乗っていました。
二宮: 18人ですか……ぎゅうぎゅう詰めの決死行ですね。サモス島にたどり着いた後は?
フセイン: 日曜の朝早くだったこともあり、浜の周囲には誰もいませんでした。その後、町に入ったところで市民に通報され、警察に捕まり、取り調べを受けてから難民キャンプへ送られました。
二宮: 難民キャンプでの生活は、大変だったのでは?
フセイン: きつかったですね。最低限の食事は与えられるものの、6カ月以内に行き先を探さなければなりませんでした。中には行く当てがある人もいましたが、私にはなかったので、友人にお金を出してもらいアテネまで移動しました。しかし、その交通費で有り金を全て使い果たし、一文無しになってしまったのです。
二宮: アテネには、難民キャンプはなかったのですか。
フセイン: ありません。なので、路上生活を強いられる人が多くいました。もちろん、私も同様です。もっとも、お金があっても難民認定が得られなければホテルにも泊まれません。私もとにかく認定が下りるまで生き抜こうと、それこそ木の実や草を食べながら耐えしのぎました。本当につらく、苦しい毎日でした。
二宮: 聞いているだけでも胸が痛みます。そこからどうやって生活を立て直したのでしょう?
フセイン: ある時、町でたまたま出会った人に「どこから来たの」と声をかけられました。「シリアです」と答えると、その人もシリア出身で、親近感を抱いてくれたのか、義足で生活をしている友人に連絡をしてくれ、医師に面会する手はずを整えてくれたのです。
二宮: 義足は、その医師に作ってもらったのですか。
フセイン: はい。手足の切断が専門だった彼は、それまでの私の来し方を聞くと、「後は任せなさい」と言ってくれたのです。そうして脚の状況を確認してもらい治療を受けて、その10日後にはきちっとフィットする義足ができあがりました。しかも、その医師は治療費から薬・義足まで、すべての費用を負担してくれたのです。
二宮: 命がけで渡ったギリシャでの運命的な出会い……聞いていて涙が出そうです。
フセイン: ほかにも素晴らしい出会いがありました。病院への送迎は、その医師が治療した人が担ってくれたのですが、その方はギリシャのパラリンピアンだったのです。ギリシャで出会った皆さんには、感謝してもしきれません。
(詳しいインタビューは8月1日発売の『第三文明』2022年9月号をぜひご覧ください)
<イブラヒム・アル・フセインプロフィール>
1988年9月23日、シリア出身。有名な水泳選手だった父親の影響で、5歳の時に水泳を始める。2014年、シリア内戦の銃撃戦に巻き込まれ、右脚の一部を失う。その後、シリアを脱出し、けがの治療と義足を求めてギリシャに入国。難民に認定され、同国で生活を始める。多くの人の助けを得て再び水泳を始め、16年のリオデジャネイロパラリンピックに難民選手団の一員として参加。開会式で選手団の旗手を務めた他、パラリンピックの精神を体現した選手に贈られる「ファン・ヨンデ功績賞」を受賞した。21年、東京パラリンピックに出場。現在は選手として練習に励む傍ら、障害のある難民をスポーツの力で支援する「アスロス財団」を設立し、多くの難民に夢と希望を送る活動も行っている。