<障がいの有無に関係なく、誰もが参加可能な陸上教室やレクリエーション活動>を謳い文句に2016年から活動をスタートさせたNPO法人シオヤレクリエーションクラブ(SRC)。理事長を務める塩家吹雪氏は伴走者として世界選手権、パラリンピックでメダル獲得に貢献した実績を持つ。伴走者を引退してからは指導者として、日本代表のコーチも務めた。長年、パラ陸上の強化育成・普及振興に携わってきた塩家氏が目指す共生社会とは――。

 

伊藤数子: パラ陸上の大会でお会いすると、塩家さんのチームは人数が他と比べて多いわけではないのに、何故だかいつも目立っていました。まだ陸上大会がアットホームな雰囲気の時もメラメラと燃えているようなオーラが出ていた印象があります。

塩家吹雪: 私はパラ陸上の伴走者を務めた頃から選手と同じ気持ちで“勝ちたい”と思っていました。それがチーム内に伝播し、みんなからも滲みでていたのかもしれませんね。

 

二宮清純: 塩家さんがパラスポーツに関わるようになったきっかけは?

塩家: 私が立ち上げた陸上クラブ(AC・KITA)の代表を務めていた2000年の時です。当時は陸上競技場で目を凝らし、いいと思う選手を探しては勧誘していました。その声を掛けた選手の1人に進行性の視覚障がいがあったんです。半年後のシドニーパラリンピックに100mと4×100mリレーで出場が決まっていたのですが、彼から「なかなか一般の大会に出場させてもらえないんですよ」と相談を受けました。当時、パラ陸上の大会は年間に4試合くらいしかなかった。一般の大会に出たくても日本では前例がなく、どこに行っても門前払い。そこで私は各大会の主催団体と交渉を重ねていきました。たとえば海外で障がいのある選手が出場している大会の動画を持って行くなどして、徐々に理解を得て、ようやくいくつかの大会で出場することができた。日本の一般大会で伴走者用に1レーンを設け、“7人決勝”(従来は8人)を実現することができた時は非常に感慨深いものがありました。

 

伊藤: 門前払いされた時の理由は?

塩家: 義足の選手に対しては「義足が外れると危ない」とか、視覚障がいのある選手に対しては「伴走者のロープが外れて、1人で走って他の走者にぶつかったらどうするんだ?」という理由でした。最終的には全責任を私が負うというかたちで誓約書を書きました。しばらくすると、「塩家さんのところなら障がいのある選手たちも出場していいよ」と認められることが増えていきました。“私のチームだけでいいのか”という葛藤もありましたが、これがきっかけになればと思いましたね。

 

二宮: そこから伴走者として関わるようになったのは?

塩家: 2001年からロンドンパラリンピック前年までの約10年です。その間に国際大会で伴走した選手は3人。2001年カナダ・エドモントンで行われたIAAF(国際陸上競技連盟)世界選手権全盲クラスの100m銅メダリストの齊藤晃司選手、2004年アテネパラリンピック100m8位入賞の矢野繁樹選手、2007年ブラジル・サンパウロで行われたIBSA(国際視覚障がい者スポーツ連盟)世界選手権4×100mリレー銅メダリストの佐藤誠喜選手です。その他では、東京パラリンピックの走り幅跳びで5位入賞を果たした高田千明選手にも、かつて100mで伴走を務めたことがあります。

 

「お互いが本気」

 

二宮: 当時の日本で短距離の伴走者は珍しかったのでは?

塩家: そうですね。伴走者は数名いらっしゃいましたが、100mに特化し、指導者も兼ねる人はほとんどいなかったと思います。

 

二宮: 伴走者は速く走り過ぎて、選手を引っ張ってはいけませんし、当然、遅くてもいけない。離れ過ぎてもダメならくっつき過ぎてもダメ。選手との阿吽の呼吸がなければ、なかなかうまくいきません。

塩家: 私自身、先ほどお話したパラ陸上選手に出会うまでパラスポーツと関わりが深かったわけではありませんでした。だから最初は“どうやればいいんだろう”と試行錯誤の連続でした。私が辿り着いた答えは、“選手と時間をたくさん共有した方がいい”というものでした。食事に行ったり、カラオケが好きな選手がいれば一緒に行ったり、買い物に行ったりもしました。このように陸上以外の時間も一緒に過ごすようにしましたね。

 

二宮: それくらいお互いの距離が近くないとダメなんでしょうね。

塩家: そうです。信頼関係が深まりますしね。矢野選手の伴走者を務めていた時、私がアテネパラリンピックの最終選考直前にケガをしたことがありました。伴走者を代える選択肢もある中、矢野選手は「僕は塩家さんとここまでやってきたんだから、一緒に走らないと意味がない」と言ってくれた。その時、“2人で一緒に歩んできたんだ”と実感しましたね。

 

二宮: 「一緒に走らないと意味がない」とは、嬉しい言葉ですね。

塩家: 彼とはレースや練習中、本気でぶつかり合うこともあり、いい関係が築けたと思っています。私自身、学生時代、陸上をやっていて、いつか大きな舞台に立ちたいと思いながら、かなわなかった。だから伴走者として、世界の舞台で一緒に戦える喜びも感じられましたし、“せっかく自分を選んでくれたのだから、金メダルを獲らせたい”という気持ちが強かった。その“勝たせたいし、勝ちたい”との思いはSRCをつくった今も変わりませんね。かつて代表を務めたAC・KITAは本格的な陸上チームでしたが、SRCは陸上のみならず、かけっこを楽しむクラブ。レクリエーション活動を通じて、地域社会との交流も図っています。せっかくウチに入ってくれたのだから、大会で勝つことや記録を出すことの喜びだけでなく、障がいの有無にかかわらず走る楽しさを共有し、成長し合うことの素晴らしさを知って欲しいと願っています。

 

(後編につづく)

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塩家吹雪(しおや・ふぶき)プロフィール>

NPO法人シオヤレクリエーションクラブ理事長。1971年、新潟県出身。中学から陸上を始める。19歳の時にクラブチームを立ち上げ、選手兼代表として活動する。2000年の視覚障がい選手入部をきっかけに伴走者としてパラリンピックをはじめ、数々の国際大会に出場。引退後は指導者としてパラアスリートの育成や日本代表のコーチなどを務める。2016年にNPO法人シオヤレクリエーションクラブを創立。障がいの有無にかかわらず子どもから大人まで参加できる陸上教室の開催やレクリエーション活動を行っている。スポーツを通じた共生社会の実現を目指し、2023年春より早稲田大学大学院スポーツ科学研究科にて研究予定。

 

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