挑戦なくして成長なし――。この言葉を大切にしているパラアスリートがいる。車いすラグビー日本代表としてパラリンピック2大会(2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロ)に出場し、リオ大会で銅メダルを獲得した官野一彦だ。現在はパラサイクリングに挑戦し、2024年パリ大会出場を目指している。彼の挑戦は競技だけにとどまらない。2017年に入社したダッソー・システムズ株式会社で働きながら、2020年にはTAG CYCLE株式会社を設立、現在は福祉住宅のコンサルティングなども行っている。

 

伊藤数子: 4年前、車いすラグビーからパラサイクリングに転向すると聞いて驚きました。それと同時に官野さんらしいチャレンジだな、と。

官野一彦: 車いすラグビーで東京オリンピック出場、金メダル獲得を競技人生の集大成に考えていました。しかし2019年8月に代表落ち。そこからの4カ月、代表復帰を目指しましたが、身心ともにきつかった。チームメイトからは「悲壮感が漂っている」と言われたほど。楽しくてやっていたはずの車いすラグビーが、いつしか、やらなければいけない、というものに変わってしまった。それできっかけで現役引退を決意したんです。その時、あることに気付かされた……。

 

二宮清純: その、あることとは?

官野: 自分のまわりに人がいなくなり、虚無感を覚えていた時期でした。ちょうどその頃、プロ格闘家だった大山峻護さんにお会いする機会があり、「自分も現役を辞めた時、似たような状況だった」と言われたんです。「官野くんが、いくらすごいことを成し遂げても誰も喜んでくれなかったらむなしいだけ。だから人のために走ろうよ」と。それを聞いて震えました。

 

二宮: 人のために走る、とはいい言葉ですね。

官野: はい。車いすラグビーを辞めた後も私を応援してくれた人がいる。この人たちに喜んでもらえる方法はなんだろう、と考えた時に出てきた答えが“挑戦”でした。アメリカに行ったときに出合ったパラサイクリングのハンドサイクルで、これまでパラリンピックに出場した日本人選手はいなかった。ならば、そこに挑戦したいと思い、競技転向を決めました。

 

二宮: それまでパラサイクリングの経験はあったんですか?

官野: ゼロです。車いすラグビーでアメリカに行った時に、競技の存在を知った程度でした。

 

 会社への恩返し

 

二宮: 競技転向を伝えた時の会社の反応は?

官野: 競技転向を会社に伝えると、社長は「いいじゃん!」と快諾してくれました。ウチの会社には社員の行動指針が4つあります。情熱、協力、学び、挑戦。「それを体現しているんだから頑張れ」と。

 

伊藤: 車いすラグビー選手を雇用していたのではなく、官野一彦というひとりの人間を雇用していたということですね。

官野: ありがたく思っています。だからこそ、どういうかたちであれ、会社に恩返ししたい。私がいろいろなチャレンジをし、行動を起こしていくことが会社への恩返しになる。競技に限らず、ダッソー・システムズの社員として、そして起業家としても社会課題解決に力を尽くしていきます。そのチャレンジを発信していきながら、自分の後に続く人たちの道標になりたいと思っています。

 

伊藤: そのためにも、まずパリパラリンピック出場を目指すと?

官野: そうですね。私は現在、H2クラス(障がいの程度によって5段階に分けられ、数字が少ないほど重い)で世界ランキング11位。5月のW杯で入賞すれば、代表入りが見えてきます。パリはダッソー・システムズの本社があるまち。ロサンゼルスパラリンピックでのメダル獲得のためにも、是が非でも出場したいと思っています。

 

(後編につづく)

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官野一彦(かんの・かずひこ)プロフィール>

パラサイクリスト。1981年8月1日、千葉県出身。野球の強豪・木更津総合高校にスポーツ推薦で入学し、1年生からレギュラーで活躍する。卒業後はサーフィンを始めるが、2004年、22歳の時にサーフィン中の事故により頸椎を損傷し、車いす生活に。2006年から車いすラグビーを始める。日本代表として2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロと2大会連続でパラリンピックへ出場。リオ大会では日本車いすラグビー史上初の銅メダルを獲得。2017年にダッソー・システムズ入社。2020年、車いすラグビーから引退。現在はパラサイクリングでパリパラリンピック出場を目指している。また実業家としての顔を持ち、2020年にTAG CYCLE株式会社を設立した。障がい者専用トレーニングジムの運営、障がいのある人が住みやすい家づくりのためのアドバイザーなど、様々な活動を通じて社会に貢献している。

 

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