ウクライナ情勢に関する軍事評論家・小泉悠の豊富な知識に裏打ちされた的確な論評には、いつも深くうなずかされる。旧聞に属する話で恐縮だが4月4日放送の「報道1930」(BS-TBS)では、かつてロシアがチェチェンやシリアで行ってきた非人道的な「占領行政」を強く非難した上で「(今回は)ウクライナという欧州の都市のすぐ近郊で起こったことで世界はショックを受けた。逆に言うと、欧州で、それも白人が犠牲にならないと世界は動いてくれない。一種の差別性を感じる」と踏み込んだ。

 

 世界は動いてくれない。だったら自らが世界を動かすしかない――。そう決意して難民や難民アスリートを支援する財団を立ち上げたイブラヒム・アル・フセインというシリア出身のパラリンピアンがいる。共通の友人を通じて、この6月、2度ほど会った。

 

 フセインが右脚を失ったのは、2012年10月2日。スナイパーから銃撃を受けた友人を助けようとビル陰から飛び出したところ、戦車の砲弾が爆発した。気がつくと「右脚が吹き飛び、体のあちこちに砲弾の金属片がめり込んでいた」。11年に始まったロシアが支援する政府軍と反政府派による内戦は泥沼と化し、彼の住むデリゾールという都市は連日のように政府軍の攻撃にさらされた。

 

 どうにか一命を取りとめたものの身の危険を感じたフセインはシリアを脱出し、トルコ経由でギリシャに逃げ延びる。トルコのイズミルからギリシャのサモス島までの渡航手段は「6メートルほどのゴムボート」。ぎゅうぎゅう詰めのボートは闇の中を5時間あまり漂った。「死んだら楽になれる」。ボートはどうにか岸辺に流れついたもののフセインは逮捕され、難民キャンプに送られた。

 

 フセインは日本流に言えば“親子鷹”である。父モハメドはアジア王者に2度輝いたことのある競泳の名選手で、自身も五輪を目指していた。内戦で右脚を失ってから3年後の10月2日、アテネのアクアティクスセンターで泳ぐ機会を得た。憧れのマイケル・フェルプスが金メダルを6つ獲得したプールで彼は「束の間の幸せ」に浸った。

 

 16年リオパラリンピック。フセインは初めて結成された難民選手団の旗手に選ばれた。東京大会にも参加した。今は難民だけの車いすバスケットボールチームを結成し、欧州の大会に出場している。パラリンピックに難民選手団はあっても難民チームはない。参加資格は個人競技に限られている。「次はチームとしてパラリンピックに出場したい」。難民アスリートの権利拡大のために奔走する彼の行動力には頭が下がる。その一方で難民パラアスリートが、これ以上増えていいものかというジレンマもある。美談ですまされる話ではない。

 

<この原稿は22年8月10日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから