チュニジアのとあるカフェで水タバコをふかしていた時のこと。何の拍子か、お店のお客さんたちと「史上最高の試合は何か」という話になった。

 

「やっぱり82年のイタリア対ブラジルだろう」

 

「いや、82年だったらブラジル対ソ連や西ドイツ対フランスも名勝負だった」

 

「70年のイタリア対西ドイツを外すのはナンセンスだと思うね」

 

 カフェとはいえ、そこはイスラム圏でもあるチュニジア。お酒を飲んでいる人間は誰もいない。にもかかわらず、話が盛り上がったこと、盛り上がったこと。国も、言語も、肌の色も、宗教も、何もかもが違う日本人とチュニジア人が、一つの話題に夢中になっていた。

 

 話は変わって先日、台湾代表の監督に就任した黒田先生からメールが届いた。

 

「代表選手たちに名勝負と言われる試合のビデオを見せたいと思います。ここ10年でこれと思う試合があったら教えてください」

 

 わたしは思わずうなってしまった。いまとは比べ物にならないほどサッカーの映像が貴重だった時代、「名勝負」と言われる一戦の“リバイバル率”は恐ろしく高かった。わたし自身、チュニジアのカフェで話題にあがったような試合は何度繰り返して見たか数えられないほどだし、おそらく、世界中にそういう人たちが山ほどいたはずである。少なくとも、チュニスのカフェに何人もいたのは間違いない。

 

 だが、いまや世界中のありとあらゆる試合がライブで観戦できる時代である。どれほど素晴らしい試合があったとしても、明日には、いや、ひょっとすると5分後にはまた次の試合のオンエアが始まる。かつてのわたしは、素晴らしい試合に遭遇すると、心の中の宝箱にしまい込み、時々引っ張りだしては悦に入っていたものだが、いつの間にか、そういう箱自体が見当たらなくなってしまっていた。

 

 つまり、黒田監督に推薦する「ここ10年の名勝負」を、わたしは瞬時に思い浮かべることができなかった。

 

 ひょっとしたら、同じことが世界中で起きている可能性がある。

 

 サッカーは進化している。選手の技術も進歩している。現代の感覚で昔の試合をみると、そのスローモーションさにびっくりさせられることもある。だが、昔より格段にスリリングになっているはずの試合たちが、世界中のファンに共通するアイコンとして残ることなく、ただ消費され、消えていってしまっている。

 

 あまりにも、惜しい。

 

 ボクシングの世界では、記者たちによる「年間最高試合」が発表されている。今年の2月、全米の記者たちは三浦対バルガスの一戦を選んだ。同じような企画が、サッカー界にあってもいいのではないか。日本、欧州、南米、世界とカテゴリーを区切ってもいい。「あの年は、あの試合があった」――後にそう振り返ることのできる賞を日本で作るできないものか。

 

<この原稿は16年12月15日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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