2005年、安永聡太郞は横浜F・マリノスから柏レイソルに移籍した。岡田武史監督の下でJリーグ連覇を成し遂げたクラブの中で居場所を失っていたのだ。

 

 2004年シーズン、入れ替え戦に回り、アビスパ福岡を破ってかろうじて残留した柏ならば出場機会はあるはずだった。

 

 しかし――。

 

「若いうちに(トレーニング)やんなかったから、俺、1試合90分まともに出ると、次の日、どっかが痛いんですよ。ニクバ(肉離れ)まで行かないんですけれど、筋肉が疲労性の炎症を起こして、結構な筋膜炎になる。だから週のうち2日はリラックスして、自分で調整していないと、ニクバ寸前になっちゃう。それぐらい筋力の継続性がなかった」

 

 鍛錬を怠っていた安永の体は、ガタが来はじめていたのだ。

 

「レイソルに行って、まともにできたのは、3カ月間ぐらいかな。あとはどっかしら痛くて、無理してやろうとすると、ピリッと来た。バチンと来るまえにやめとこうと休憩して」

 

 彼によると、筋肉の痛みを我慢して練習したこともあったが、今度は腰痛が出てきたという。

 

 2005年シーズン、柏での出場はリーグ戦8試合、カップ戦3試合のみ。得点は1という成績だった。シーズン終了後、安永は戦力外となった。

 

 怪我が続き、彼はサッカーに対する情熱を失いつつあった。

 

「あと、当時、俺って人付き合いがそんなに上手くなかったんですよ。どこのチームに行っても、結局、監督たちと揉める。なんか煩わしくなっていた。もういいやと思った」

 

 安永は29歳になっていた。最後にもう一度だけ、スペインで実力を試してみようと自分を奮い立たせた。

 

「スペインに行って、テストを受けて、それで駄目だったら諦めよう、と。だから、あの年(柏との契約終了後、Jリーグの)トライアウトは受けていない。マリノスにお願いしてユースの練習に参加させてもらって体を動かしていた。夏(の移籍期間)になったら、スペインに行こうと思っていた」

 

 安永は知り合いに頼んで、スペイン人の代理人を紹介してもらうことにした。

 

 安永はテストを受けたいのとクラブを紹介して欲しいと彼に頼んだ。すると1週間ほど経った頃、「3チームが興味を示している。こちらで契約をまとめるので日本で待っているように」という指示が入った。

 

 ところが、その後、代理人から連絡はなかった。そして移籍期間終了の8月31日を迎えた。

 

「待っていたら、8月31日になった。それでもういいやって。これも俺の人生だと思って引退した」

 

 かろうじて残っていた希望の糸がぷつんと音を立てて切れた瞬間だった。

 

 サッカー選手にとって必ずスパイクを脱ぐ時期はやってくるものだ。ただし、その見極めは難しい。年齢を重ねると、ポジショニング、周りの選手の使い方が上手くなり、体力、瞬発力の衰えを補うことができる。特に、サッカーが何事よりも上位に置かれる国でプレーしたことのある選手は、なかなか現役を引退しない。体の中、毛細血管の先までサッカーが入り込んでいるからだ。

 

 ぼくは、安永はそういう選手だとばかり思っていた。怪我があったとしても、フェロールであれだけサッカーを楽しそうに語っていた彼が、あっさりとサッカーを辞めることが信じられなかった。

 

 ぼくの言葉を聞いた安永は顔をくしゃくしゃとさせて、なんとも表現しがたい表情になった。

 

「なんか素直じゃなかったです。自分に対して。サッカーが好きで好きで仕方がなかった。だけど、それをバンと出してもいいのはスペイン。ああいう環境に行ったときには出せるのだけれど、日本に戻ってきたらできなかった。自分が控え選手ではなく、先発選手のグループにいたら、また違ったのかもしれない。控え選手のグループで、自分の弱さと継続性のなさが出た。彼らと一緒に監督の文句を言い始めたり」

 

 結局は自分の弱さですよ、と吐き捨てるように言った。

 

 再燃のきっかけは“ユメセン”

 

 引退後、安永は2007年から日本サッカー協会の『JFAこころのプロジェクト』(ユメセン)の専属講師となり、日本全国の小学校を回った。子どもたちにサッカーを教えることで、また安永はサッカーに引きつけられることになった。

 

「そのときはうっすら現場に行きたいとは思っていたけど、絶対に監督になりたいというほどではなかった。ちょっとずつ(サッカー協会公認ライセンスの)級を取りながら、“サッカーっておもしれーな”と思う自分がいた」

 

 Jリーグでの監督に必要なS級ライセンスを取得する頃、指導者になりたいと真剣に考えるようになった。

 

 そして、脳性麻痺7人制サッカーの日本代表監督を経て、2016年8月にJ3の『SC相模原』の監督に就任した。

 

 相模原での指導について問うと、安永の口から次々と言葉が流れ出してきた。

「俺は(選手に対して)下手に丸くなるんだったら、尖ればいいと思っている。選手にいつも言っているんだけど、個性の部分で下手に丸くなられて“何でもできます”と言われたら、どこでも使えない。だったら、“俺はこれしかできません、これならば負けません”と言って欲しい。そうしたら、他は眼をつぶる。レギュラーでなくとも、試合終了ラスト15分でこういうプレーが欲しいときに選択肢に入れるから。“なんでもできます、そつなくこなします”という選手はレギュラーを獲らない限り、途中出場では使わないという話をしている」

 

 丸くなるな、というのは高校卒業直後、横浜マリノスで、自分の良さを消してでも試合に出ようとしようとした反省でもある。

 

 また、かつて何度も監督と衝突した安永は選手と向き合うことを自分に課している。

「人と人って本当は面倒くさいじゃないですか? やっぱりみんな試合に出たいし、使う使わないで(選手の)顔色が変わる。(試合に出られない選手を)プロだからって、ほっとくのは簡単なんですよね。でも自分が選手だったときに、外されて顔に出していた。あのとき、一言掛けてもらうだけで、自分の中では違った。“これをやってくれとか、ああいうプレーを引き続きやってくれればチャンスは来るから”という一言で気持ちが違ってくる。そこは俺、やり続けようと思って」

 

 相模原は11月9日現在、J3、17チーム中(セレッソ大阪U-23、ガンバ大阪U-23、FC東京U-23を含む)11位。少々物足りない成績である。それでも安永は前を向く――。

 

 またサッカーに熱くなっているね、とぼくが言うと、安永は照れ笑いした。

「熱くなかったら、やめてるでしょ。(ユメセンで)ずっと回っていたほうが、色んな地域を回って面白かったし」

 

 フェロールで出会ったときと同じ、サッカーが大好きでたまらないという、サッカー小僧の顔だった。

 

(この項おわり)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。最新刊は『ドライチ』(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com

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