法政大学自転車競技部に所属する近藤翔馬は愛媛県松山市で生まれ育った。松山市は同県の県庁所在地で人口は約51万人で四国最大の都市である。松山城を中心に発展した旧城下町で温泉などの観光地的側面もあれば松山市駅には商業ビルもある。また、温州ミカンの生産地としても有名で、様々な顔を併せ持ち年間を通して温暖な気候の土地だ。

 

<2018年2月の原稿を再掲載しています>

 

 そんな土地で育った近藤は絵に描いたようなヤンチャ坊主だった。通っていた松山市立潮見小学校から家に帰ると玄関にランドセルを放り投げて、外に遊びに出かけた。

 

「連絡も取れず、なかなか帰らないから家族からは“鉄砲玉”と呼ばれていました(笑)」と懐かしそうに近藤は語り、続けた。

「棒を持ってひたすら田んぼや畑、山、公園を走り回っていました。鬼ごっこやモデルガンで遊ぶのも好きでしたね」

 

 近藤は父が好きだった格闘技にも興味を持ち始めた。偶然、近藤家の近所には極真会館愛媛県戸田道場があった。この道場は劇画『空手バカ一代』にも出てくる大山倍達が作った極真空手を広げるために設立された。小学校入学前に父から「極真空手をやってみるか」と問われた。近藤は大喜びで道場の門を叩いたのだ。

 

 極真空手である以上、もちろんフルコンタクトである。近藤は戸田道場に通い、心身を鍛えたのだった。

 

 道場に足繁く通っていたころを、近藤はこう振り返る。

「しんどいこともありますが、終わった後にはものすごい達成感がある。それが癖になってしまって、“またやりたい”と思うんです」

 

 極真空手は保育園時代から始めて7年も続いた。今も道場に籍は置いているのだという。

 

 向かなかった団体競技

 

 小学校を卒業し、地元の松山市立鴨川中学校に進学した。近藤が通っていた潮見小学校と同じ市内の久枝小学校とみどり山小学校の生徒が主に通う中学校だ。

 

 ヤンチャ少年だった彼に、「中学時代の思い出は」、と聞くと「やっぱり体育祭ですかねぇ」とにこにこしながら答えた。体育委員で全体を盛り上げる役回りを担っていたという。先述した小学校時代の様子からすると、明るく元気に他の生徒を盛り上げる近藤の姿が容易に想像できた。

 

 大自然の中を走り回り、極真空手を通じ、たくましく育った近藤。中学校ではテニス部に入ろうと考えていた。

 

 ところが、である――。

 

 進学先の鴨川中学校には、男子テニス部がなく、女子テニス部しかなかったのだ。それならば、と近藤はサッカー部に入部する。

 

「FWでひたすら走り回っていました。“お前はトップでひたすら走ってボールを追いかけろ”と。最初はルールもわからずにやっていたので、FWの位置からDFの位置まで縦横無尽に駆け回っていました。ボールを懸命に追いかけて、“あっ!”と気が付いたら一番後ろ(DFの位置)まで戻ってしまっていたこともありました(笑)」

 

 田畑を駆け回っていた少年らしいエピソードだな、と思いながら聞いていたら、彼はこうも口にした。

 

「僕はチームプレーが得意ではないんです。一人で突っ走っていくタイプ。サッカーは楽しかったことは楽しかったのですが、そこまでムキになれなかったと言いますか……。結果を出すにはチーム全体の動きが大事になってくる。個人では結果がついてこないじゃないですか。“なんか違うなぁ”と思いました」

 

 ここが近藤のキーポイントだったのではないか、と私は思った。団体競技に向かないと、自分の適性に気付いた。中学生で自己を理解することはある意味で“大人”とも言える。

 

 この判断が、近藤を個人競技に引き寄せたのだろう。彼は中学3年生の進路を決める時期に、松山聖稜高校を受験することを考えていた。入学前に自転車部競技部があると知り、「楽しそうだ」と思い、入部しようと思っていた。

 

 自転車競技の強豪校である松山聖稜高校。過去には全国大会優勝、世界選手権を制覇した実績がある。自転車競技未経験の近藤は苦しみながらも、才能を少しずつ開花させることになる――。

 

第3回につづく

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近藤翔馬(こんどう・しょうま)プロフィール>

1998年3月4日、愛媛県松山市生まれ。小学生時はフルコンタクトの空手、中学校時はサッカーに取り組む。松山聖稜高校に入学してから自転車競技を始める。2015年5月、愛媛県高校総体スクラッチで優勝。翌月の四国高校選手権ではポイントレースとスクラッチで1位に輝いた。同年の和歌山国体ポイントレースで8位の入賞を果たした。法政大学に入学すると17年全日本大学対抗選手権のスクラッチで優勝を果たした。身長169センチ、体重69キロ。

 

(文・写真/大木雄貴)

 


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