伊藤数子: 荒井監督はとても行動力のある方で、新潟県の道の駅で鮎焼きを売っていた車椅子の若者に声をかけて、「スキーをやらないか」とスカウトしたこともあったそうですね。

荒井秀樹: そんなこともありましたね(笑)。新潟県の学校の先生に紹介してもらい、会いに行きました。その選手は1、2回ほど練習に来ましたが今は車椅子バスケットボールをやっています。あとは東京でも、電車で車椅子に乗っている子を見つけたら僕は「シットスキーやパラスポーツをやらないか?」と声をかけています。「パラリンピックに挑戦してみませんか?」と話をして、子供の目が輝く瞬間を見るのがうれしいんです。

 

二宮清純: それがきっかけでパラリンピックに出る人もいるでしょう。

荒井: 今回の平昌パラリンピックにも出場したクロスカントリースキーの岩本啓吾選手がそうです。彼には、道端で声を掛けました。7年前、北海道音威子府(おといねっぷ)村で開催されたクロスカントリースキーの大会に彼が出ていたんです。一般の部には日立ソリューションズスキー部の新田佳浩らが出ていたので、僕も現地にいました。高校生の部が終わった後、スキー板を担いで歩く岩本選手を見つけて声を掛けたんです。「これに出ていたのか?」「はい」「完走したのか?」「はい」。よくこの難しいコースを、と感心しましたね。

 

二宮: それだけ素質があった?

荒井: 岩本選手は脳性麻痺で左足に障害があるのですが、小さいころから双子の弟と一緒にクロスカントリースキーをやっていたので非常に巧く滑る。世界でも脳性麻痺のクロスカントリースキー選手は少ないんです。これは、パラリンピック選手になる可能性があるかもしれない、と思いました。彼は高校生でしたので、その場でお母さんに電話を掛けてもらい、パラリンピックへの挑戦を始める許可をいただきました。

 

二宮: トントン拍子でことが運んだと?

荒井: しかし、ジャパンパラリンピックに出ようという話になった時に、彼は障害者スキーの大会に出るために必要な障害者手帳を持っていないことがわかったんです。それでお母さんに申請の手続きをしてもらいました。

 

伊藤: 親御さんがお子さんを障害者として育てたくないという方針で、障害者手帳を申請しない方もいらっしゃいますね。

荒井: 岩本選手はその後、ソチパラリンピックに出場しました。当時は高校生でしたが、現在も競技を続けています。高校を卒業後、就職した会社に朝の早い仕事ですが毎日頑張っています。本当は長時間のトレーニングができる環境も用意できればと思う気持ちもありますが、彼の将来のことを考えたら社会人としての時間もとても大切です。職場で結果を残すことも応援したいと思っています。

 

“知らない世界”へ飛び込む

 

荒井: アメリカやカナダでは弁護士や医師になっているパラアスリートもいる。アメリカにはスキータムというパラアスリートに支援をする組織があります。でも無条件で寄付を受けられるわけではなく、選手は寄付金をもらうためにプレゼンをします。プレゼンでは選手たちがスポーツをする理由だけでなく将来の夢も語ります。それを受けてゴールド、シルバーなどと格付けされて、支払われる寄付金が決まるシステムになっています。

 

二宮: アメリカは寄付文化が根付いていますからね。

荒井: スキータムでは夢を持っている選手に企業がお金を出すという仕組みができている。そこに集まる経営者は、経営者同士が出会うことで新たなビジネスが生まれることもある。「ただ単にパラリンピックの選手のために集まっている組織ではないので良い」と聞きました。今の日本のパラリンピック選手たちにも企業がいろいろなかたちで支援をしている。それを選手側からも企業にとってもプラスになるような仕組みを明示できれば、お互いに良い関係が築ける。そういうシステムを作っていった方がいいかなと感じています。

 

伊藤: 荒井監督の情熱、行動力には驚かされます。さきほどの選手のスカウトしかり、企業に赴き、技術提供をお願いしにいくことを含めていろいろなアクションを起こしていますよね。

荒井: 自分自身が楽しいんですよ。知らない世界に行って、“何をつくっているんだろう”“どうやって儲かっているんだろう”と考えちゃいますよね(笑)。

 

二宮: ところで日本では健常者のスポーツとパラスポーツの団体が別々の場合が多い。オリンピックとパラリンピックのチーム同士で情報の引き継ぎや共有はあるのでしょうか?

荒井: これはもう個人に任せているところが多いですね。別に仕組みがあるわけではなく、スタッフや選手の繋がりで、情報を共有していると思います。

 

 各競技団体の統一を!

 

二宮: オリンピック・パラリンピックは同じ都市で開催しますし、競技会場も同じ場合がある。オリンピックが終わった後にパラリンピックがスタートしますから、引き継げるものは引き継いでほしいですね。

荒井: それが同じ競技団体だったら、よりやりやすくなると思いますね。だから早く全日本スキー連盟の中に障害者スキーやパラスキー部門をつくり、一体となってやるべきだと思います。夏の競技でも分かれていますが、1日でも早くNF(国内の競技団体)を統合すべきです。

 

伊藤: 他の国ではどうなのでしょうか?

荒井: フィンランド、スウェーデン、ノルウェーなどヨーロッパはスキー連盟と一緒になっている国が多く、強いですね。各国のスキー連盟HPを見れば、パラの選手が紹介されていますし、ユニホームも同じものを着用しています。その点は日本がまだまだ遅れている。現在はオリンピック・パラリンピック、オリ・パラなどと一緒になって呼ばれることも増えてきましたが、もっと一体となることが必要です。

 

伊藤: 2年後の東京オリンピック・パラリンピックは1998年の長野大会以来となる自国での開催となります。

荒井: 2020年大会に対しては「ゴールにしてはいけない。スタートにしなければならない」と声が聞こえていますが、これは1998年長野大会の時にもそういうふうに言われていました。ところが、長野パラリンピックが終わると、応援をしてくれていた企業はいっせいに離れてしまった。助成金なども減額されて、ほとんどお金が無くなってしまった。その時の経済状況もありますが、パラリンピックに対する認識もその程度のレベルだったんです。

 

二宮: 長野で起きた波を生かしきれなかった反省があるわけですね。

荒井: ただポジティブな点もあります。パラスポーツがリハビリという観点ではなく、ひとつのスポーツとして見てもらえるようになりました。そしてパラスポーツの競技団体が生まれたのも、長野の大きな成果です。競技団体ができて、チームを残そうという動きも出てきた。それ以降にスタートした全国規模の競技大会もある。だからぜひ、東京パラリンピックが終わった後も、全国の街や企業で、いろいろなところで、パラスポーツそのものが根付いていければいい。僕たち現場も強化だけでなく、もっと普及していけるよう頑張っていきたいと思います!

 

(おわり)

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荒井秀樹(あらい・ひでき)プロフィール>

1955年2月14日、北海道生まれ。平昌パラリンピックノルディックスキーチーム日本代表監督兼日立ソリューションズ「チームAURORA(アウローラ)」監督。1998年長野パラリンピック開催を機に障害者ノルディックスキー選手の育成・強化に努めている。自らが先頭に立ちスカウトや企業回りなどを行う熱血漢。パラリンピックは長野大会から平昌大会まで6大会連続で指揮を執り、5大会連続でメダリストを輩出した。指導者として世界選手権、ワールドカップ各大会の優勝に導いた実績を誇る。


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